目次

3強対決を制した「逃げ馬」の真骨頂

3強対決を制した「逃げ馬」の真骨頂

第1章

3強対決を制した「逃げ馬」の真骨頂

サイレンススズカ ターフを駆け抜けた 伝説の逃げ馬の生涯

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 サイレンススズカを語るうえで決して忘れることのないレースが冒頭記した天皇賞・秋とするなら、もっとも印象の残った名勝負といえば、やはりこのレースだろう。

 1998年10月11日、毎日王冠 芝1800m。

 宝塚記念馬のサイレンススズカ5歳(現表記で4歳)をはじめ、無敗でNHKマイルカップを制した4歳馬(現表記で3歳)エルコンドルパサーと、同じく無敗で朝日杯3歳ステークス(現朝日杯フューチュリティステークス)を異次元の末脚で圧勝したグラスワンダーという大物外国産馬も2頭顔を揃えたことで、このレースは9頭立ての少頭数になった。

 だが、その注目度は相当なもので、レースが始まる数時間も前から東京競馬場は熱気で溢れかえっていた。
 G2レースにも関わらず、詰めかけた観客は13万人。G1をもしのぐ勢いだった。それも当然で、この“3強対決”が実現するのは難しく、たとえば当時の天皇賞・秋は出走制限から外国産馬のグラスワンダーとエルコンドルパサーは出走できない規定がある。注目されるのは必然だった。

 1番人気にサイレンススズカ、2番人気は「怪物」との異名をとる注目株のグラスワンダー、そして3番人気が「スタミナの化け物」と呼ばれたエルコンドルパサー。

 そして、レースはスタートした。予想どおり、サイレンススズカの逃げで始まったレースは、ランニングゲイル、エルコンドルパサーと続き、そしてビッグサンデー、グラスワンダー、テイエムオオアラシらが追った。

 1000mの通過ラップは57秒7。並みの逃げ馬なら潰れてしまってもおかしくない。
 実況アナウンサーは「小細工なしの真っ向勝負」と、このレースを展望していたが、グラスワンダー陣営は一つの策を講じていた。

 サイレンススズカは、ぶっちぎりの「逃げ馬」である。だが、武豊が「逃げて差す」と称したように、この頃のレース展開は途中で「息を入れ」、二の脚を使ってまた加速するスタイルをとっていた。このギアチェンジは、再度の加速でトップスピードを出せる馬にしかできない芸当だった。

 グラスワンダー陣営は、サイレンススズカが「息を入れた」スキが勝負と見ていた。ここでつけ込み、並びかけてから一気に抜き去ろうと考えたのだ。

 しかし、逃げて差せるサイレンススズカはひと味もふた味も違う。強引に仕掛けたグラスワンダーらを第4コーナー付近でひきつけた後、直線に入って再びギアを入れて置き去りにした。グラスワンダーはついていけず、5着に沈み、真っ向勝負を挑んだエルコンドルパサーも最後までサイレンススズカの影を踏むことはできずに2着に終わった。

「3強対決」と騒がれたレースは、蓋を開けて見れば、「グランプリ・ホースの貫録、どこまで行っても逃げてやる」と実況アナウンサーが叫ぶように、サイレンススズカの強さを見せつけたものとなった。

 レースを終えた武豊はこうコメントしている。
「1000mを56秒台で通過しても平気な馬ですから、今日は比較的ゆったり行けましたね。直線で確認のために一応後続を見ましたが、全然かわされる気はしませんでした」

 武とサイレンススズカが目指した「逃げて差す」というレース展開は、ここに完成を見た。
 エルコンドルパサーに騎乗していた蛯名正義騎手は、レース後「(サイレンススズカの)影さえ踏めなかった」と語り、この時から「影さえ踏めない馬」はサイレンススズカの代名詞の一つとなった。

 これで5歳になって負けなしの6連勝。大きな目標としていた秋の天皇賞に王手をかけた。そして、周囲の話題は一つに集中していた。

  「天皇賞では、どんなレースを見せてくれるのか」

 だが、まさか次の天皇賞があまりにも受け入れがたい現実を突きつけられることになるとは誰一人想像すらしていなかった。
 サイレンススズカとの永遠の別れ、沈黙の日曜日が訪れようとは……。

 その本題に入る前に、次章からはサイレンススズカ誕生からの“光と影”の軌跡を辿る。

(写真は、1998年の毎日王冠)

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