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“シャネルの5番”秘話

“シャネルの5番”秘話

第3章

“シャネルの5番”秘話

競馬とバレエ 〜ふたつのニジンスキー伝説〜

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 残された写真を見るかぎり、ニジンスキーは太い首に太い腿を持ち、決して優美でも女性的でもない。けれどもその肉体から放出される踊りの、「人間以外」あるいは両性具有的な存在感は19世紀後半から20世紀初頭にかけての好みを象徴していた(イギリスで1895年に男色の罪で投獄された作家オスカー・ワイルドは服役後、パリに移り住む。パリはこうした点で寛容な街だった)。その意味でも、時代を代表するアーティスト達はニジンスキーの虜になった。1913年にはイギリスで早くもニジンスキーをテーマにした展覧会が数人の画家を集めて開催され、さまざまな画集が出版されている。

 舞踏史研究家の芳賀直子によれば、

 「全盛期にこれほど対象化されたダンサーは後にも先にもニジンスキーただ一人で、それほどフォトジェニックで創作意欲を刺激する対象だったのだ。」



ニジンスキー_牧神の午後

ニジンスキーが振り付けた『牧神の午後』のバクストによる衣装デザイン。当時のプログラムや雑誌の表紙などを飾った。(写真:Roger-Viollet/アフロ)

 こうした空気感が世界の競馬界にも伝わっていったのは間違いない。当時の観劇などの劇場は、現在と違ってバレエやオペラなどの「舞台を見に行く場所」というよりは「社交の場」としての機能が強かった。ディアギレフもよくわかっていて、観客がしばしば観劇を中断して客席を離れ、他の客との歓談に耽られるよう、20〜30分ほどの作品をいくつか並べるプログラムを作っていた。

 この「社交の場」という機能は、競馬場もまったく一緒だった。こんな例をご紹介しよう。

1923年早春のある日曜日、パリ郊外のロンシャン競馬場ではこんな「社交の場」が展開されていた。

 ココ・シャネルはある人物と会うため、ロンシャン競馬場に正装して出かけた。パリの西端でセーヌ川がカーブしている辺りに広がるブーローニュの森に設けられたロンシャン競馬場は、昔も今もエレガントな社交場であり、日曜日ともなると、人を見たり人に見られたり、コースを走る馬を見たり、賭け事の後で豪華な食事を楽しんだりするためにパリ中から人が集まってくる。



ロンシャン競馬場

華やかなロンシャン競馬場のパドック。(写真:PanoramiC/アフロ)

 そのころのシャネルは「マドモアゼル・バレエ」として目まぐるしい日々を送っていた。彼女はその創造力を、ディアギレフ・バレエのコスチューム・デザインに注ぎ込んでいたのだ。あるバレエのためにデザインしたコスチュームは、脚本で表現されている微妙な性的逸脱に見事にマッチし、性別のステレオタイプや両性具有や同性愛と戯れる登場人物たちの魅力を引き立てた。

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