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日本の代表としてドバイへ

日本の代表としてドバイへ

第2章

日本の代表としてドバイへ

砂漠の地で成就した日本競馬の悲願 ヴィクトワールピサ

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 ヴィクトワールピサは2007年3月31日、北海道千歳市の社台ファームで生まれた。父ネオユニヴァース、母ホワイトウォーターアフェア(その父Machiavellian)。8歳上の半兄アサクサデンエンは安田記念を制している。

 市川義美氏が所有し、栗東の角居勝彦厩舎に預けられたヴィクトワールピサは、2歳の10月にデビューした。新馬戦は2着に敗れたが、このとき勝ったのはローズキングダム。2カ月後に朝日杯フューチュリティステークスを勝ってこの世代の2歳王者となり、3歳秋にはジャパンカップを制することになる馬だ。

 2戦目の未勝利戦を順当勝ちし、京都2歳ステークス、ラジオNIKKEI杯2歳ステークスと連勝したヴィクトワールピサは、3歳初戦の弥生賞も勝ってクラシック戦線の最有力馬に。そのままの勢いで1冠目の皐月賞を豪快に差し切り、2003年の春2冠馬である父ネオユニヴァースとの父子制覇を達成。堂々のG1ホースとなった。

 続くダービーでエイシンフラッシュの3着に敗れたヴィクトワールピサは、その秋、菊花賞ではなくフランスの凱旋門賞に挑戦。3歳馬による凱旋門賞出走は、日本馬では史上初だった。

 8月に渡仏したヴィクトワールピサは、3歳馬同士の前哨戦であるニエル賞の4着(勝ち馬ベーカバド)を挟み、本番の凱旋門賞へ。英ダービー馬ワークフォースが、やはり日本から遠征していたナカヤマフェスタとの叩き合いを制して優勝するなか、7着でレースを終えた。

 帰国後、ジャパンカップで3着と健闘したヴィクトワールピサは、年末の有馬記念へ。ここで、ブエナビスタ以下を斥けて見事に勝利。2つ目のG1タイトルを獲得するとともに、名実ともに日本を代表する現役最強馬の1頭となった。

 年が明けて4歳となったヴィクトワールピサは、ドバイワールドカップへの挑戦を見据えて中山記念に出走。貫録さえ感じさせる強さで勝利し、勇躍、ドバイへとやって来たのだった。

 ドバイワールドカップと同じ2000mの皐月賞を制しているヴィクトワールピサにとっては、距離が問題となることはもちろんなかった。未知なのは、芝ともダートとも異なる、オールウェザーという舞台だった。

 もともとドバイワールドカップは、ナドアルシバ競馬場のダート2000mで行われるレースとして始まった。しかし15年目を迎えた2010年、新たに建設されたメイダン競馬場に舞台を移すとともに、ダートに代わる新しい馬場として注目され、アメリカを中心に広まっていたオールウェザーが採用されることとなった。この年は、その2年目だった。

 ひと口にオールウェザーといってもさまざまな素材があるなか、メイダン競馬場には「タペタ」というブランドの人工素材が使用された。以降、5年間はこれで施行されたものの、2015年からは再びダートに戻されている。強烈な太陽光による劣化などが理由とされたが、いずれにせよ、この時点ではタペタへの適性は日本の芝馬、ダート馬に限らず、多くの国の有力馬にとって未知の要素となっていた。

 そんな挑戦の舞台へ向けて、ヴィクトワールピサは3月9日に日本を出発した。途中、香港で飛行機を乗り継ぎ、16時間にも及ぶ旅路を経てドバイに到着したのは3月10日になってからだった。

 日本をあの大震災が襲ったのは、その翌日のことだった。

(写真:2010年有馬記念)

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