目次

苦難の競馬学校時代を経て、騎手としてデビュー

苦難の競馬学校時代を経て、騎手としてデビュー

第2章

苦難の競馬学校時代を経て、騎手としてデビュー

池江泰郎物語

目次

 馬事公苑では、まず基本となる馬術を習った。慣れてくるとより実践に近い形でモンキー乗りを習得した。のちに保田隆芳がアメリカから持ち帰ったような短い鐙で、風の抵抗を防ぐために小さく体を折り畳んだそれとは少し違ったが、いずれにせよ天神乗りはもう誰も教えられていない時代だった。

 一方、同期生のなかには我流で乗馬経験のある人が多かった。入学した時点ですでに経験者と差ができていたが、教官はこういった。

 「キミは真っ白だからいいんだよ。私のいう通りにやりなさい」

 その言葉を信じた。周りの同期たちがいうことは右から左に聞き流し、ただひたすら教官の教えを守った。そうして池江は馬事公苑で、あくる日もあくる日もひたすら訓練に明け暮れた。

 そんな池江が、騎手になる意をさらに強くする出来事があった。6月にみんなで行った東京競馬場での日本ダービー観戦である。池江にとっては初めての競馬場、初めてのダービーだった。東府中駅で電車を降り、テクテク歩いて東門を入るとそこには尾形藤吉厩舎や藤本冨良厩舎といった名門が居並んでいた。道路の両側は欅並木になっている。

 「まずは、ここで騎手になることを目指さないと」

 池江は初めて競馬場の土を踏みしめたとき、改めて決意を固くした。初めて目の前で観戦した日本ダービーを制したのはハクチカラだった。そしてこの馬はその後、池江にとって思い出深い馬になったが、その理由はあとで記すことにしよう。

 冬の冷え込みが厳しくなる頃、所属厩舎が決まり、春を迎えると池江は1年の課程を修了し、卒業した。最後にみんなが見ている前で「この馬を乗りこなせたら、どんな馬でも乗れる」といわれていたヤンチャな馬に騎乗した。入学当初は馬に近づけなかった池江が果たして乗りこなせるのか、周囲は半信半疑だったが、見事に乗りこなすとどこからともなく拍手が起こった。その自信を胸に、京都競馬場に厩舎を構える相羽仙一のもとに弟子入りした。

 当時、トレーニングセンターはまだなく、競馬場の脇に厩舎が構えられていた。師弟関係が今よりも厳しい時代だった。師匠の相羽は明治生まれで、池江より40歳ほど年上だった。兄弟子には20歳離れた浅見国一がいただけで、年の近い者はいなかった。恐らく、相羽がそれだけ厳しかったのだろう。池江は、騎手としてのことをほとんど浅見から教わった。

池江泰郎物語

 騎手としてデビューしたのは、天皇皇后両陛下が御結婚された昭和34年のこと。当時は騎手にも担当馬がいて、馬房掃除など普段の世話もしていた。池江は、ヤマヒサというアラブの牝馬を担当していた。今はほとんど見かけなくなったが、馬を洗うときには、もち米の寝藁を柔らかくして束ねた物を使っていた。こうするとマッサージにもなって血行が巡り、毛ヅヤも良くなった。そうして毎日、調教も厩舎作業も一生懸命頑張った。しかし、初勝利はなかなか訪れない。3月から騎乗を始め、同期で一番遅い初勝利は9月だった。

 初勝利に導いてくれたのは、担当していたヤマヒサだった。当時はたてがみを編むことが多く、池江もヤマヒサのたてがみを丁寧に編み、ボンボンをつけたりと、レース直前までヤマヒサのそばで過ごした。レースでは人気を分け合ったライバルに7、8馬身差をつけての圧勝。飛び上がるほどうれしかった。うれしさのあまり、勝負服を着たまま厩舎に走って帰ると、池江の代わりにレース後の手入れをしてくれていた厩務員に「僕がやるよ」といい、ヤマヒサの体を洗った。レースで疲れたヤマヒサの体を労わり、何度も撫でては「ありがとう、ありがとう」と口にした。昭和34年第6回京都1日目のことだった。今でも初勝利の写真は大切に保管している。

 そうしてデビューから10年ほど経った昭和44年11月、栗東トレーニングセンターが開場。すでに師匠の相羽は亡くなり、兄弟子の浅見が騎手を引退し跡を継いでいた。京都競馬場にあった浅見厩舎が、栗東トレーニングセンターに移動したのは開場した翌年12月のことだった。

 京都も寒いところだったが、栗東の寒さも堪えた。朝の調教では「手袋をすると手綱を握る手の感覚が鈍るから、真冬でも素手で乗れ」といわれていたが、どうしても手がかじかんで感覚がなくなってしまう。今のように滑り止めのついた手袋もなかったため、女性用の薄い布手袋をはめて、その上から手術用のゴム手袋を重ねた。そうすると寒さが防げ、なおかつ手綱が滑ることもなかった。それが当時、冬の調教で当たり前のように見られた光景だった。

(扉写真:ヤマヒサ号で初勝利をあげた、昭和34年第6回京都1日目)

© Net Dreamers Co., Ltd.