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「競馬ブーム前夜」〜黎明期の名勝負を振り返る その1

「競馬ブーム前夜」〜黎明期の名勝負を振り返る その1

第2章

「競馬ブーム前夜」〜黎明期の名勝負を振り返る その1

有馬記念で振り返る競馬ブーム(上)

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加賀騎乗のミハルカス執念の奇襲をもろともせず、王者シンザン堂々の横綱相撲で史上初の五冠馬と成る

 ずいぶんと長い間、「シンザンを超えろ!」が競馬の世界に生きる全ての人々のスローガンとなっていた時代があった。

 シンザンを超えるような強い馬を生産者は生産したいと汗を流し、調教師はそんな馬を見出し、育てるために馬産地を見て回り、騎手はその背にまたがることを夢見て、馬主は熱心にセリ市へと足を運んだのである。そして、競馬ファンの誰もがシンザンのような強い馬の勝つレースを見たいと願い、JRAもそんな馬の出現を強く望んでいた。

 それだけ、シンザンの強さ、偉大さは競馬を知る全ての人が認めるところだったのである。

引退後、自身の銅像除幕式に現れたシンザン 写真:読売新聞/アフロ

 1964年、セントライト以来23年振りの三冠馬となったシンザンは菊花賞後の疲労が抜け切らず、早々と暮れの有馬記念出走回避を表明したが、ファン投票では第3位に選ばれた。

 明け4歳の1965年1月、中尾謙太郎厩務員(後に厩務員出身初の中央競馬調教師となり、1996年桜花賞馬ファイトガリバーなどを管理)は、調教後のシンザンの右後肢の爪が出血しているのを発見した。原因は後肢の脚力が増し、踏み込みが深くなり、前肢の蹄鉄が後肢の爪に当たってしまうためだった。武田文吾調教師は福田忠寛装蹄師の協力のもと、試行錯誤の末、後肢の蹄鉄にスリッパのようなカバーを取り付けて爪を保護し、さらに前肢の蹄鉄をカバーの当たる衝撃から守るため、電気溶接でT字型のブリッジを補強した、後に「シンザン鉄」と呼ばれる独自の蹄鉄を考案した。この蹄鉄は通常のものに比べ2倍以上の重さであったため、脚部に負担がかかり、故障を招く恐れもあったが、シンザンはこれを見事に克服した。

「シンザン鉄」のお陰で蹄の炎症は解消されたが、調教の遅れからローテーションは変更され、1965年春の天皇賞を回避して、ファン投票第1位の宝塚記念の勝利後、シンザンは秋まで休養することになった。

 順調に夏を過ごしたシンザンは秋の最初の目標、天皇賞(東京芝3200m)へ向けて、初戦となった10月2日の阪神のオープン戦を快勝した。当初、武田調教師はシンザンを府中へ輸送し、オープン戦を叩いて本番というローテーションを描いていた。ところが、折悪しくインフルエンザが発生して競走馬の移動禁止令が出され、その解除を待つうちに出走予定のオープン戦が行われてしまったのである。

 やむなく武田調教師は63kgという重い斤量を背負う11月3日の目黒記念(東京芝2500m)に出走させたが、その心配をよそに4コーナーで先頭に立ったシンザンはブルタカチホ以下を退けて優勝し、続く本番の天皇賞でも、単勝支持率78.3%、単勝・複勝配当100円の元返しという圧倒的な人気に応え、2 着ハクズイコウに2馬身の差をつけ快勝した。

 武田調教師は次の目標である有馬記念前に、中山コース未経験のシンザンのスクーリングと天皇賞からの間隔が空き過ぎないように12月18日の中山のオープン戦を使い、連闘での有馬記念出走を決めた。しかし、これに主戦の栗田勝騎手が強く反対した。二人の間に確執が生じたまま、シンザンへの負担を軽くするため武田調教師はオープン戦に、斤量の軽い当時見習い騎手だった息子の武田博騎手を乗せた。しかし、シンザンは伸び切れず、格下のクリデイの2着に敗れたことから、栗田騎手は落胆し、泥酔して病院に搬送されるという事件を起こしてしまったのである。これに激怒した武田調教師は、本番の有馬記念では栗田騎手ではなく、同厩の松本善登騎手(1979年カツラノハイセイコで日本ダービー制覇)の騎乗を発表した。

 そんな不穏な雰囲気の中で迎えた第10回有馬記念、レースはファン投票第1位、単勝オッズは1.1倍という圧倒的な1番人気のシンザン対他7頭という様相を呈していた。

 荒れた稍重馬場の4コーナー、早くも前年の覇者ヤマトキョウダイを交わしたシンザンは、果敢に逃げる加賀武見騎手のミハルカスに並びかけた。すると加賀騎手はシンザンに馬場の悪いインコースを走らせようと、わざと外にふくらみ、外ラチにかなり近い進路を取った。反則ぎりぎりの作戦である。しかし、初騎乗の松本騎手は躊躇することなく、そのさらに外のラチ沿いのコースを選んだ。この時、テレビカメラの視界から一瞬シンザンの姿が見えなくなり、アナウンサーの実況も途絶えた。そして、再びカメラが大外からミハルカスを交わしたシンザンの雄姿をとらえ、「シンザン先頭!」とアナウンサーが叫んだところがゴールだった。

 レース後、松本騎手は「シンザンが外を回れと言った! 相手は加賀の馬だけだと思いながら乗った。4コーナーで外に振られたが、内に持ち直す必要はない。並べばこっちが強いと信じていた」と語った。

第10回有馬記念 右から1着松本善登騎手のシンザン、2着ミハルカス、3着ブルタカチホ 写真:日刊スポーツ/アフロ

 わが国初の「五冠馬」となったシンザンは、府中、京都で引退式を行い、浦河の谷川牧場で種牡馬となった。種牡馬としての人気も上々で、1978年の5位(地方競馬を含めると3位)を最高に、合計7回種牡馬ランキングのトップ10に入った。当初の産駒はスガノホマレ、シルバーランドといったスピード型の中距離馬が多く、なかなか大レースを勝つステイヤーが出てこなかったが、1981年にミナガワマンナが菊花賞を勝つと、1985年にはミホシンザンが皐月賞と菊花賞の二冠を制し、父の名を高めた。

 ミホシンザンが春の天皇賞を勝って引退した1987年、26歳となったシンザンも種牡馬を引退した。805頭の産駒たちが残した成績は、総勝利数625勝、重賞勝利数49勝、G1級勝利数4勝という素晴らしいものであった。

 種牡馬引退後のシンザンは谷川牧場で功労馬として繋養され、1996年7月13日、老衰のため35歳3ヶ月の生涯を終えた。当時の日本最高齢馬記録であった、これだけの長寿を全うできたのも、シンザンの持つ身体的、精神的な強靭さの証であろう。谷川牧場に建てられたシンザンの墓と銅像には、今も訪れるファンが絶えない。

■DATA
第10回 1965年12月26日(日)曇/稍重
勝馬:シンザン 牡4歳 鹿毛
斤量:56kg
タイム:2分47秒2(2600m) 1番人気
父:ヒンドスタン 母:ハヤノボリ(父:ハヤタケ)
騎手:松本善登
調教師:武田文吾
生産者:松橋吉松 北海道浦河町
馬主:橋元幸吉

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