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起伏の激しい土地を切り開き、スタッフ総出で育成牧場を作り上げた

起伏の激しい土地を切り開き、スタッフ総出で育成牧場を作り上げた

第2章

起伏の激しい土地を切り開き、スタッフ総出で育成牧場を作り上げた

「血統」からひもとくメジロ牧場

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 メジロ牧場は1967年に、北海道の伊達市にて開場。1971年には現在のレイクヴィラファームのある洞爺湖町に分場(後に本場となる)も開設している。

 それまでメジロ牧場の所有する繁殖牝馬は、創業者である北野豊吉氏が懇意にしていた大久保末吉元調教師(大久保洋吉元調教師の父)が振り分ける形で、日高管内の牧場で繋養されていた。

 しかし、繋養する繁殖牝馬と牧場の数が増えてきた時期に、北野氏と旧知の仲で、伊達市内にあった高橋農場の内田場長から、生産馬の育成をともに行うことを持ちかけられる。

 その際に創業地となる伊達の牧場に繁殖牝馬を集める計画が持ち上がり、実際に高橋農場から土地を譲ってもらい、そこに繁殖厩舎を2棟建てて、さらに高橋農場内には育成厩舎や調教コースを建造していった。

 しかし、その繁殖牧場の開業から間もなくして、内田氏がガンで急死。頼りにしていた人物だけでなく、育成馬の行き先も失うことになった北野氏は、

 「自分たちの力で一から育成牧場を作る」

 との選択をする。その際、北野氏は地元の生産者の中心人物に声をかけ、

 「今すぐ平らな土地で50町歩(約50ヘクタール)の土地を探してくれないか」

 と頼み込み、次の年の2月に見つかったのが今のレイクヴィラファームがある、洞爺湖町の場所だった。

 「(北野)豊吉さんが話すには、その時は雪が降り積もっていたこともあって、真っ平らな土地に見えたそうです。ただ、この辺は北海道を代表するような豪雪地帯で、山あり谷ありの起伏の激しい場所を、雪が覆い尽くしていただけだったというのは、契約が終わり、雪が溶けた後に知ったそうです」

 とユーモラスなエピソードを交えて話すのは、メジロ牧場で長きに渡って専務を務め、現在はレイクヴィラファームの代表となっている岩崎伸道代表。

メジロ牧場

現在のレイクヴィラファーム

 その後、伊達市には繁殖牧場を、そして洞爺湖町には育成牧場が作られていくことになる。その際、育成牧場における騎乗スタッフとなっていたのが、日本大学の馬術部に所属し、夏休みには伊達の牧場にもアルバイトに来ていた岩崎伸道氏だった。

「牧場でのアルバイト、そして、馬術で使う乗馬を譲り受ける際などに『メジロ』の馬たちや、北野家の方との関係が深まっていくなかで、卒業後に馬と関係する仕事をしようと思って選んだ職場がメジロ牧場でした。当時は育成牧場の土地に牧柵を立てている段階であり、自分も馬乗りの後はその手伝いをしたり、火山灰地だったコースに砂を入れるべく、海沿いの町までダンプを運転して砂をもらいに行ったりもしていましたね」

 じつはメジロ牧場に入るまでの岩崎氏は、まったく競馬に関する知識を持ち合わせてはおらず、生まれて初めて競馬場に入ったのも、当時、東京競馬場で厩舎を構えていた大久保末吉厩舎へ乗馬を譲り受けに行ったときだったという。

 しかし、岩崎氏はその真摯な性格と真面目さを見込まれる形で、事務的な仕事も任されるようになり、いつしか、牧場へ頻繁に足を運ぶことができない北野氏や、「メジロのおばあちゃん」として、競馬ファンに知られていく妻のミヤさんに変わり、専務として牧場の全般を取り仕切るようにもなっていく。

(扉写真:レイクヴィラファーム代表 岩崎伸道氏)

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