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小柄ながらバランスの良さが目立った幼少期

小柄ながらバランスの良さが目立った幼少期

第2章

小柄ながらバランスの良さが目立った幼少期

その“もどかしさ”が好きだった 〜ステイゴールド物語〜

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 前章ではステイゴールドの気性の荒さの例として育成牧場での様子にも触れたが、ここで少し時間を巻き戻してみたい。

 ステイゴールドが生まれたのは、1994年3月24日。父は大種牡馬サンデーサイレンス。いや、この表現は正確ではない。サンデーサイレンスが「大種牡馬」と認識されるようになるのは、まだまだ先のことだ。この時点では、初年度産駒のフジキセキやジェニュイン、タヤスツヨシ、ダンスパートナーといった馬もまだデビュー前である。

 ましてや、種付け時はサンデーサイレンスの3年目。初年度産駒の仔馬を見ることはできただろうが、逆にいえば、生の情報はそれだけ。種牡馬としての期待は大きかったが、走るという保証はどこにもない。実際、巨額のシンジケートが組まれ、鳴り物入りでやってきた種牡馬の産駒が、日本の馬場に合わないなどの理由でまったく成績を残せなかったという例も少なくない。

 3年目の種牡馬の種付けは、初年度や2年目の盛り上がりや話題性も薄れはじめ、かつ客観的なデータもないという、いわゆる「谷間」の世代になりやすいといわれる。そのジンクスが当てはまったのか、この世代からは(同期にサイレンススズカという怪物がいるものの)クラシックの勝ち馬が出ていない。サンデーサイレンスが種牡馬として日本で産出した12世代のうち、クラシックの勝ち馬が出なかったのはこの世代と1999年産(2002年のクラシック)だけだ。

 こうした「谷間」とも見られる状況ながら、前章でも見たように、白老ファームが用意した繁殖牝馬は、サッカーボーイの全妹のゴールデンサッシュ。この母自身は未勝利だったとはいえ、牧場としては自慢の良血馬だったはずだ。そこには「谷間」という感覚は見て取れない。

 そして、翌年、この母から黒鹿毛の牡馬が生まれる。のちに管理調教師となる池江泰郎氏は、白老ファームから連絡を受け、誕生から1週間ほどのこの仔馬を見に北海道まで出かけている。

「初めて見た印象は『薄くて小さい馬だな』というもの。でも、バランスはよかった。サンデーサイレンスっぽいっていうのかな。見ていても、きれいな馬でしたね」(池江氏)

 直接、仔馬の馬体を確認した池江氏は、自厩舎での管理を決める。ただ、牧場での短い出会いだけでは、この馬のとんでもなく荒い気性については、とくに印象に残らなかったようだ。

 この馬のオーナーとなったのは、社台レースホース。クラブ会員が一口単位で出資する、いわゆる「クラブ馬主(一口馬主)」である。価格は一口95万円の40口、合計3800万円での募集となった。

 ステイゴールドという馬名は公募によって名付けられたが、これはスティーヴィー・ワンダーの曲で、映画『アウトサイダー』の主題歌のタイトルから付けられている。母馬ゴールデンサッシュから連想されたものだろう。

「いつまでも黄金の輝きのままで」。その名に「常にゴールドメダルを維持してほしい」との思いが込められた黒鹿毛は、関係者、そしてクラブ出資者たちの大いなる希望を背負うことになった。馬房でも馬場でも、ちょっとしたことですぐに暴れ出す「やんちゃ」には、そんなことは知る由もなかったが、その後、彼は関係者はもちろん、馬券以外には利害関係のない一般のファンたちをも魅了する、不思議な走りを見せてくれることになる。

ステイゴールド

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