竹園正繼氏にセリ落とされ、栗東の岩元市三厩舎に入厩したワンスウエドの栗毛は、テイエムオペラオーと名付けられた。
竹園氏と岩元調教師とは、小さい頃からの幼なじみ。ふたりは鹿児島県肝属郡垂水町(現・垂水市)で兄弟のように育った仲だ(竹園氏が2学年上)。
中学を卒業した竹園氏は県内の高校へ進学し、岩元氏は大阪の花屋に就職した。その後、お互いに音信不通となったが、企業経営者になっていた竹園氏がテレビの競馬中継を見ていると、日本ダービーを勝利したバンブーアトラスに騎乗していたのが、幼なじみの岩元氏であることに気づいた。
花屋に就職したはずの幼なじみが、いつの間にかダービージョッキーになっていたことに驚き、自身も一念発起する。事業をさらに成功させて、自身が馬主になり、幼なじみに会いに行こうと心に決めたのだった。
5年後、竹園氏は馬主資格を得た。それこそ、寝る間も惜しんで働いた結果だった。
その後、騎手を引退して調教師となった岩元氏の厩舎に、竹園氏は自身の所有馬を数多く託した。テイエムオペラオーもそのうちの1頭だった。
さて、そのテイエムオペラオーだが、いきなり「未来の賞金王」の片鱗を見せたというわけではなかった。
デビューは1998(平成10)年8月15日。鞍上にはその後、共に伝説を築き上げていく和田竜二騎手を迎え、断然の1番人気になりながら2着に敗れている。
レース後に発覚したケガもあり、次戦は年明け1月16日の未勝利戦となった。休み明けということもあり、このレースは4着に敗れる。
初勝利は、1999(平成11)年2月6日の未勝利戦。快進撃はここから始まる。
とはいえ、馬主の竹園氏も、岩元調教師も、この時点では「オープン馬になって、そこそこ稼いでくれるかな」ぐらいの認識だった。実際、この時点では、テイエムオペラオーのクラシック登録はされていなかった。
この後、ゆきやなぎ賞(500万下)、毎日杯(G3)と連勝したため、追加登録料200万円を支払ってクラシックの追加登録をすれば、皐月賞への出走が可能となったのだが、追加登録については、当初、陣営の意見は真っ二つに分かれていた。
岩元調教師は、目の前で日に日に状態を上げていくテイエムオペラオーを見て、「ぜひ、皐月賞を走らせたい」と思った。
それに対して、竹園オーナーは「無理して皐月賞を使う必要はない。じっくり調整して、ダービーに向かいたい」と考えていた。
このとき、ちょっとしたエピソードがある。杵臼牧場の鎌田場長のもとに、以前から親交のあった栗東の瀬戸口勉調教師から電話がかかってきたのだ。内容は、テイエムオペラオーについてだった。
(写真:1982年日本ダービー、ゼッケン17番がバンブーアトラス)
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