ドバイ・ワールドカップG1。現在の賞金総額は1000万ドル。1995年のレース創設時は600万ドル(1ドル100円として6億円)だったが、それでもケタ違いと言ってもいい当時の世界最高額であり、2017年に賞金総額1200万ドルのペガサス・ワールドカップ(G1)が米国・フロリダのガルフストリームパーク競馬場で開催されるまで「世界最高賞金額」の座を守り続けてきた。現在でも、世界最高レベルの賞金を目当てに世界中からトップクラスの競走馬が集結するビッグレースである。
レースは、シェイク・モハメド(ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム)というひとりの人物によって創設された。
1949年生まれ。2006年からはUAE(アラブ首長国連邦)の副大統領兼首相であり、連邦を構成するドバイ首長国のアミール(首長)という立場にあるが、競走馬の世界的なオーナー・ブリーダーとしても知られている。UAEはGDPの約40パーセントが石油と天然ガス生産で占められ、ドバイ・ワールドカップの高額な賞金の背景にあるのもそうしたマネーであるのは間違いない。
だがシェイク・モハメドは天然資源の枯渇を見越してかなり早い時点から国内でのサービス産業の振興に力を入れてきた。ドバイが今日、世界中から観光客を集める国際リゾートとなっているのは、彼の功績と言ってもいいだろう。そして、サービス産業と並んで彼が力を注いできたのがスポーツ、なかでも競馬なのである。
サラブレッドの起源がアラブ種にあることは広く知られているが、もともとアラブ民族にとって乗馬は身近なスポーツであり、生きるための術だった。なにしろ2012年には愛馬マジィ・デュポンに乗って、FEI世界馬術選手権エンデュランス馬術部門に出場しているほどだ。この競技は数10キロメートルの長距離を数時間かけて騎乗し、その走破タイムを競う競技であり、シェイク・モハメドはそこで160キロを走破する。
シェイク・モハメドは語る。
「私の家系には馬に対する愛情が流れている。馬はアラブ民族によって何世紀にもわたり育てられ、狩り、戦争、アラブ史の象徴として使われたてきたことを忘れないで欲しい。乗馬は単に馬の背中に跨るという以上の意味がある。それは高潔さと騎士道である」
若かりし頃、シェイク・モハメドはドバイの中学を卒業後、英国に留学。サンドハースト王立陸軍士官学校で学び、卒業時には英連邦の士官候補生主席として評価され、名誉の剣を授与されている。英国の競馬に出会ったのは、この頃だった。
1967年、18歳のときに兄のハムダンと一緒にニューマーケット競馬場で開催された2000ギニー(G1)を観戦。その10年後には、彼の所有馬ハッタがブライトン競馬場でのレースで初勝利する。そしてその5年後にはもう兄とともに100頭の競走馬と3つの種馬飼育牧場を所有するようになっていた。
こうしたシェイク・モハメドの競馬に描ける情熱、また行動力の裏づけとなる潤沢な資金もあって、ドバイ・ワールドカップは世界最高の賞金総額を争うレースとして創設されたのだ。
そしてついに1996年、第1回ドバイ・ワールドカップが開催される。シェイク・モハメド、そのとき齢46。
この第1回の優勝馬は、米国のシガー。ドバイ・ワールドカップに参戦する時点で1994年から続く連勝は13に伸びており、1995年には米国のダートレースで最高峰と位置づけられるブリーダーズCクラシック(G1)にも勝利していた。
シェイク・モハメドは、この馬の参戦に強くこだわっていたという。600万ドルという当時の世界最高の賞金額も、シガーを呼ぶために用意されたと言ってもよい。結果、シガーはドバイ・ワールドカップ後も勝利を重ね、最終的に連勝記録を16にまで伸ばした。これは伝説の名馬サイテーションに並ぶ20世紀の米国記録である。
また、第1回はナド・アルシバ競馬場でダートレース(2000メートル)として開催されたが、シェイク・モハメドは、もともと調教用の馬場として使用されていたナド・アルシバのコースが世界最高のレースに相応しいものだとは考えていなかった。
そこで用意したのがメイダン競馬場。ナド・アルシバ競馬場に隣接しているが、ホテル・ショッピングモール・映画館などを含む複合商業施設「メイダン・シティ」の中核という位置づけ。いかにもシェイク・モハメドらしい発想である。
メイダン競馬場は2010年1月に開場し、ドバイ・ワールドカップでも同年の第15回から使用されている。また、この年に賞金総額が1000万ドルへと上積みされた。開場当初は1周2400メートルの芝コースと、1周1750メートルのオールウェザー(タペタ)コースを備え、ドバイ・ワールドカップはオールウェザー2000メートルで争われることとなった。しかし、後にタペタはダートコースに改修されることとなり、2015年以降のドバイ・ワールドカップは再びダートレースに戻っている。
ここまで、ドバイ・ワールドカップの背景、シェイク・モハメドの競馬へのパッションを簡単に紹介してきた。次章以降は、世界最高レベルの賞金を争ってナド・アルシバで、メイダンで、欧米の強豪馬たちと凌ぎを削った日本調教馬の熱闘を振り返っていこう。
(写真:シェイク・モハメド/2006年)
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