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日本ダービー馬、米国重賞初制覇

日本ダービー馬、米国重賞初制覇

第2章

日本ダービー馬、米国重賞初制覇

世界に挑んだサムライサラブレッド〜Part4・アメリカ編〜

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 当時、日米の競馬界にあった差異は騎乗スタイルだけではなかった。

 飼料も、そのひとつだった。人間の食事同様、米国では競走馬の飼料も日本に比べ栄養価が高い。ハクチカラが日本で食べていたのと同量を与えたのでは、当然、ベストの体重をオーバーしてしまうことになる。そこで飼料の量を減らしたのだが、ハクチカラは苛立ちを示し、ときには寝藁を食べてしまうこともあった。だが、1958年5月の米国到着から4カ月が経過し、保田騎手が単身帰国した頃から徐々に米国の飼料にも馴れてくる。

 蹄鉄の違いもあった。ダートレースが主流の米国では、日本では認められていない「スパイク蹄鉄」が使用されているが、これもハクチカラを悩ませた。米国での拠点となったハリウッドパーク競馬場の柔らかい馬場もハクチカラのフォームを崩したという。

 しかし、こういった違いも乗り越え、ハクチカラは米国式の調教でコンディションを整えていく。米国のR.ホイーラー調教師の献身的な働きが大きかった。

 そして1958年12月26日、サンタアニタパーク競馬場で米国6戦目・トーナメントオブローゼス賞のときが来た。鞍上は保田隆芳から代ったE.アーキャロ騎手。ここで2着と好走を見せると、翌1959年もアーキャロが騎乗を続け、1月の3レースで3着・2着・5着とコンスタントに力を示した。

 2月10日のサンルイレイHからは鞍上がR.ヨークに代るが、ここでも4着。まだ米国での勝利はなかったものの、ハクチカラは充実の状態に入ったと言えるだろう。そして、2月23日にサンタアニタパーク競馬場で開催のワシントンズバースデイHを迎えたのである。

 サンタアニタパーク競馬場は1934年の開場で、2013年に閉鎖されたハリウッドパーク競馬場、デルマー競馬場とともに米西海岸の「3大競馬場」と称され、最古の歴史を誇る名門だ。

1934年:オープン当日のサンタアニタパーク競馬場

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 その日、サンタアニタパーク競馬場には4万5000人の競馬ファンが詰めかけた。彼らのお目当ては、前年の米国年度代表馬にも選出され、引退までに計16度のレコード勝ちを記録した伝説の名馬ラウンドテーブル。当然、オッズでも大本命となっていたが、結果的にはレース中に右前脚を負傷するアクシデントもあり、16着に沈んでしまった。

 だが、このレースでラウンドテーブルはハクチカラと11.5キロ差という重いハンデを背負わされていた点は特記すべきだろう。なにしろこのアクシデントから復帰後、この年9勝を挙げ、その内7つがレコード勝ちだったのだから…。

 ワシントンズバースデイHは芝2400メートルで争われるレース。スタート後、ハクチカラは約800メートルの地点で先頭に立つとレースをリード。最後の直線に入り、アニサド(Anisado)の猛追をしのぎ、そのままクビ差でゴールイン。タイムは2分32秒4。単勝45.7倍という大穴の勝利だった。

 前章でも述べたように、当時はグレード制が導入される以前で、このワシントンズバースデイHというレースの格については今日でも議論がある。しかし、1973年に米国でグレード制が導入されると同時にG1に格づけされたケンタッキーダービーの1959年当時の優勝賞金は11万9650ドルだった。ケンタッキーダービーは現在も米国3歳馬の最高峰レースだが、ハクチカラが勝利したワシントンズバースデイHの優勝賞金は5万ドル。十分な重みのある「価値のある勝利」と言っていいだろう。

ハクチカラ:米国での全記録


 日本調教馬による海外挑戦の嚆矢となり、人間も海外に渡航することが稀だった時代にハクチカラは米国で17戦に出走した。帰国後は種牡馬となったが、なにぶん当時の日本の生産界では外国産馬が重用される傾向が強かった。日本調教馬として初の海外勝利を挙げたハクチカラですら必ずしも特別な価値を持っていたわけではなかった。

 結局、米国遠征から10年後の1968年、ハクチカラはインドに寄贈される。同国は旧英領で競馬も盛んだ。ハクチカラはデカン高原のクニガル牧場で種牡馬として共用され、2頭のクラシック優勝馬を含め多くの優駿を輩出した。

 1979年に老衰のため死去したが、インド競馬界はハクチカラの功績を讃え立派な墓を建て、次のように銘した。

《日本でダービーに勝ち、米国で重賞を制覇、種牡馬としてインドに死す》

(扉写真:'56日本ダービーを制したハクチカラ)

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