2017年浅田真央、2016年秋本治、2015年吉永小百合、2014年タモリ。
何のことだと思われたかもしれないが、文芸・映画・スポーツなど様々な分野で業績を残した個人や団体に与えられる「菊池寛賞」受賞者の一部である。
菊池寛(きくち・かん、1888-1948)。「文壇の大御所」と呼ばれた作家であり、出版社の文藝春秋を創設した実業家でもあり、直木賞・芥川賞を創設したエンタテインメントの天才でもある。
菊池はまた、文士馬主の走りでもあった。『日本競馬読本』など競馬関連の著作があるばかりでなく、競馬場に吉川英治、舟橋聖一、吉屋信子、富田常雄といった作家や、女優の高峰三枝子らを連れてきて、競馬場を華やかな社交サロンとした人物としても知られている。
そう、ここに記した作家たちは、自然発生的に競馬を描くようになったわけではなかった。菊池が「仕掛け人」となって、競馬界に文芸の息吹を吹き込んだのだ。菊池がいなかったら、競馬を描いたり、馬主となった作家の顔ぶれがガラリと変わるか、ゼロに近い状態になっていただろう。黎明期の近代競馬は、ひどく味気ないイメージになっていたかもしれない。
菊池は1888(明治2)年12月26日、香川県高松市で生まれた。本名も同じ表記だが、寛は「かん」ではなく「ひろし」と読む。
第一高等学校中退後、京都帝大英文科に入学。第三次、第四次『新思潮』に参加し、文壇にデビューする。その後、戯曲『父帰る』、小説『忠直卿行状記』などを発表し、1920(大正9)年、『真珠夫人』を「大阪毎日新聞」「東京日日新聞」に連載し、流行作家としての地位を不動のものとした。
文藝春秋を創設し、雑誌「文藝春秋」を創刊したのは、35歳になる1923(大正12)年のことだった。競馬法が制定され、明治末期に禁止された馬券の発売が再び認められるようになったのもその年だ。
当時の馬券は、大卒の初任給が15円ほどだったのに対し、最低単位が20円と高額だった。
僕は、大正十五年以来、競馬ファンとして、精勤している
菊池が競馬ファンになったという大正15年の勝馬投票券(写真:JRA)
『日本競馬読本』にそう記している。つまり、競馬を始めたのは文藝春秋創立の3年後。作家としても実業家としても成功していた菊池は、その高額な馬券を楽しむだけの経済力を有していた。
福島競馬場にも足しげく通った。上野−福島間の臨時競馬列車に「クラブカー」という麻雀卓を備えた車両を連結するサービスがあり、池谷信三郎、久米正雄らとともに常連だったという。
馬券を買うファンであるだけにとどまらず、1929(昭和4)年には馬主となり、「カナヤマシ」という名で多くの競走馬を所有するようになる。
どれだけ競馬を愛していたかは、1935(昭和10)年4月に大阪中央公会堂で行った講演での言葉によく表れている。
「私は、1月から3月末までは競馬がないもんですから、どうして暮らそうかと考えております。月の初めに催眠剤でも呑んで寝てしまって、3月の末になったら目が覚めるような催眠剤でもないかしらんと思っています」
当時の競馬にはシーズンオフがあった。一年中行われている今の競馬を見たら、どう言っただろうか。
菊池が芥川龍之介賞と直木三十五賞を創設したのも、上記の講演を行った1935年だった。両賞の贈呈式は、上半期が8月、下半期が翌年2月に行われている。2月と8月は出版界で「ニッパチ」と呼ばれ、本が売れないと言われる閑散期だ。そうした時期に人々の関心を本に寄せようとした菊池は、まさに「エンタテインメントの天才」と言えよう。
菊池寛はまさに「エンタテインメントの天才」だ(写真:Kodansha/アフロ)
翌1936(昭和11)年、『日本競馬読本』をモダン日本社から上梓した。世界的画家として知られる藤田嗣治が装画を描いている。「初めて競馬に行く人に」「勝馬鑑定法」「我が馬券哲学」といった章で構成される入門書だ。
なかでも「我が馬券哲学」は、今に通じる至言の宝庫と言え、耳が痛くなったり、つい膝を打ったり、唸らされたりと、読んでいて飽きることがない。
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