菊池寛が1936(昭和11)年に上梓した『日本競馬読本』所収「我が馬券哲学」には、80年以上経った今の時代にも通じる金言がびっしり詰まっている。
堅き本命を取り、不確かなる本命を避け、たしかなる穴を取る。これ名人の域なれども、容易に達しがたし
それはわかるが、「たしかなる穴」とは、どういう馬なのか。そのヒントが次の言葉にある。
しかれども、実力なき馬の穴となりしことかつてなし
なるほど。穴になるのは、多くの人がその馬の実力を測りそこねているからなのだ。次の言葉も肝に銘じたい。
甲馬乙馬実力比敵し、しかも甲馬は人気九十点乙馬は人気六十点ならば、絶対に乙を買うべし
そして次の金言。これは「我が馬券哲学」ではなく「初めて競馬に行く人に」という章に記されている。
いくら研究しても損することもある。しかしそれは研究したために損をするのではなく、研究が中途半端か、あやまっているためか、さもなければ時として起る偶然の事故――つまり落馬とか、失格とか云った結果のために損するのである
考えれば考えるほど当たらなくなるように感じるときは、この言葉を思い出すといいのではないか。
『日本競馬読本』を出した4年後の1940(昭和15)年5月19日、菊池が所有するトキノチカラが阪神競馬場の芝3200mで行われた春の帝室御賞典(現在の天皇賞)を優勝。馬主としても大きな栄誉を手に入れた。彼が所有馬につけた「トキノ」の冠は、自作の戯曲『時の氏神』からとったものだった。
また、菊池は、翌1941年に創刊された日本競馬会の機関誌「優駿」の6月号に「無事是名馬」と題する文章を寄せている。それが今も広く使われている「無事是名馬」が初めて活字になったものだ。
セントライトが日本競馬史上初の三冠馬となったのもこの年だった。セントライトの馬主の加藤雄策を最初に競馬場に連れて行ったのも菊池だったのだから、さまざまな面で、黎明期の近代競馬を支えていたことがわかる。
菊地はその後、映画会社「大映」の初代社長に就任してからも競馬場に通いつづけた。馬券を売らない能力検定競走として行われた1944(昭和19)年の東京優駿に所有馬トキノチカヒを出走させ、見守った300人ほどの関係者のなかにもその姿があったという。全身全霊で競馬を愛した文壇の大御所はしかし、1948(昭和23)年3月6日、狭心症で急逝。59歳だった。
同年の「優駿」3、4月合併号に、代表作『姿三四郎』で知られる作家・富田常雄が寄せた追悼文の「失はれた柱」というタイトルが、菊池の偉大さを言い表している。
それから半世紀近く経った1990年代、菊池が創設した文藝春秋が発行するスポーツ誌「ナンバー」で、年に数回、定期的に競馬特集を組むようになった。
筆者が初めて同誌に寄稿したのは、1990年の秋競馬特集号だった。週末の中山競馬場で、なるべくガラの悪い人や、見るからにベテランのファンばかりに声をかけ、流しのカメラマンとして食べていた人が撮った写真とモノローグで構成する「ギャンブラーズギャラリー」という企画と、それとは対照的な「武豊ターフ日記」の原稿を書いた。そのとき、ともに中山競馬場で取材をしたのは、新谷学という担当編集者だった。そう、さらに20年ほど経った今、「週刊文春」編集長として、数々のスクープを飛ばし「文春砲」という流行語までつくった切れ者である。
彼を含め、文春の社員に競馬好きが多いのは、創始者の菊池寛が馬主になるほど競馬が好きだったことと無関係ではないだろう。
「無事是名馬」という名言をひろめた「エンタテインメントの天才」の魂が、世間を賑わす「文春砲」の心意気のなかにも息づいていると言える。
言わずもがなだが、現代の競馬もエンタテインメントのひとつである。
すべては菊池寛から始まったのだ。
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