まずは第1回のジャパンカップを振り返ろう。
結果は悲惨だった。レースでは天皇賞優勝馬をはじめとする当時の日本のトップレベルのサラブレッドが束になっても、とうてい“一流”とは言えない外国馬たちに軽くあしらわれ、5着が日本馬の最高着順だった。
<第1回ジャパンカップ・データ:http://db.netkeiba.com/race/198105050809/>
「あのレースを観戦したものは、日本馬がジャパンカップを勝つまであと20年はかかる、21世紀の出来事だろうと心底ため息がもれたはずだ」
東京大学名誉教授で競馬への造詣も深い本村凌二は著書の中でこのように述べている。
ところが、第3回になると、たしかに敗れはしたが、日本の秋の天皇賞馬がアイルランドの一流牝馬に追いすがり、アタマ差の2着に食い込んでしまう。
「ひょっとしたら、来年あたりはいけるのではないか?」ファンのボルテージは上がる。
<第3回ジャパンカップ・データ:http://db.netkeiba.com/race/198305050809/>
ファンの期待値が上がるのはもっともだった。
実はこの第3回ジャパンカップが開催された1983年には、トウショウボーイ産駒のミスターシービーという馬が、皐月賞・ダービー・菊花賞の三冠を達成していた。セントライト、シンザンに次ぐ史上3頭目の3歳クラシック三冠であり、シンザンの三冠達成が1964年だったことを思えば、ほぼ20年にわたるブランクののちの快挙だった。
<ミスターシービー・データ:http://db.netkeiba.com/horse/1980107022/>
しかも、である。
翌年の1984年、今度はパーソロン(1963年に“種牡馬”、つまり種馬として輸入された)産駒のシンボリルドルフが8戦無敗の“三冠馬”という、ミスターシービーの上をいく大記録をひっさげて、第4回のジャパンカップに参戦してきたのだ。
そう、将来のトウカイテイオーの父馬である。このレースには、前年度の三冠馬、ミスターシービーも“秋の天皇賞”タイトルをプラスさせて、同時参戦してきていた。
<シンボリルドルフ・データ:http://db.netkeiba.com/horse/1981107017/>
ここまでお膳立てができれば、否が応でも盛り上がろうというものだ。
「当時の競馬ファンは『ルドルフ派』と『シービー派』に分かれていた」
ノンフィクションライターの江面弘也は書いている。
「どっちが強いかという論争にもなったが、ファンの人気、とりわけ女性人気は断然ミスターシービーで、『人気のシービー』にたいする『実力のルドルフ』というのが一般的な評価だったろうか」
ミスターシービーには妖麗な美しさがあったと言われ、70年代のハイセイコー以来のアイドルホースだった。
だが結果は意外な形で終わる。
たしかに日本馬の初優勝はなったものの勝ったのは10番人気の馬で、1番人気のミスターシービーは10着の大敗、4番人気のシンボリルドルフは3着だった。
あまりにも三冠馬2頭への期待が高かっただけに、「競馬場内は静寂な落胆の雰囲気につつまれた」と、前述の本村凌二は書いている。
<第4回ジャパンカップ・データ:http://db.netkeiba.com/race/198405050810/>
このジャパンカップを境にミスターシービーは走りに精彩を欠いていく一方で、シンボリルドルフはこの年の有馬記念を制するだけでなく、翌春の天皇賞も勝ち、秋にはついに第5回ジャパンカップを堂々の1番人気で優勝する。
考えてみれば3歳時のジャパンカップでの敗退は、前々週に菊花賞を走ったばかりという、強行日程の影響もあったかもしれず、むしろよく3着に食い込んだというべきかもしれない。
いずれにせよ、第5回では2着にも日本馬が入り、日本競馬の実力の底上げぶりを見せつけた。
<第5回ジャパンカップ・データ:http://db.netkeiba.com/race/198505050810/>
(写真:シンボリルドルフ 下野雄規)
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