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序章 生麦事件

序章 生麦事件

第0章

序章 生麦事件

漱石と競馬をめぐる一考察 横浜〜上野〜ロンドン

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文久2年8月21日(新暦1862年9月14日、以下、基本的にすべて新暦表示)、武蔵国橘樹郡生麦村、快晴…

…前方から久光の乗る乗物が、駕籠廻りの藩士にかためられて接近してきた。
それらの藩士の中から長身の男が、顔面を蒼白にして走り出てきた。供頭の奈良原喜左衛門で、乗物は停止していた。
奈良原は、怒りにみちた眼をマーシャルたちに向け、手を激しくふり、
「引き返せ」
と、怒声を浴びせかけた。
 その声に、狼狽したリチャードソンが青ざめた顔をマーシャルたちに向けた。
<中略>
列が乱れ、馬が荒々しく足をはねあげた。
奈良原の口から叫び声がふき出し、刀の柄をつかんでリチャードソンの馬に走り寄った。
 かれは、長い刀を抜くと同時にリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた。それは、藩主の前で披露したこともある野太刀自顕流の「抜」と称する奈良原の得意とした技であった。
 血が飛び散り、激しい悲鳴があがった…
(吉村昭『生麦事件』より抜粋)

 幕末史上名高い「生麦事件」。薩摩藩主・島津久光の大名行列に騎馬上のイギリス人4人が遭遇、「無礼!」とばかりに、内ひとりを薩摩藩士が斬殺した事件である。その後のイギリス、幕府、薩摩藩の交渉は、さまざまな思惑が絡み賠償交渉は難航を窮めた。吉村昭が描いた小説は、この前代未聞の事件を軸に、明治維新に至る激動の6年間を圧倒的なダイナミズムで描写し、彼の歴史小説の中でも傑作のひとつとなった…。

 実際、イギリス人一行は、川崎大師見物に出かける途中で大名行列に出遭ってしまうのだが、当然ながら事件はすさまじい波紋を呼ぶ。実はこの出来事、その後の日本の近代競馬の発展と大きなかかわりがある。いや、その余波に競馬が巻き込まれたと言った方が実情に近いかもしれない…。

 幕末史を思い出してほしい。江戸幕府は、事件に先立つ数年前から日米修好通商条約(1858年)をはじめとして英国などの各国と次々に条約を結び、東京や横浜、神戸などに外国人の居住と貿易を認めていた。いわゆる"外国人居留地"の誕生である。
 中でも生麦村に近い「横浜村」は、条約により開港場として整備・埋め立てられて外国人居留地に指定される。事件に巻き込まれたイギリス人らが住んでいた場所は、現在の中華街や横浜市役所、横浜スタジアム界隈に当たる。

 意外なことに、当時の横浜居留地には競馬場があった。

 日本の近代競馬の発祥地に関しては諸説あるのだが、競馬番組の記録に残っている最も古いものは、文久2(1862)年5月に横浜新田、いまの中華街付近。ここはちょうど居留地の裏手に当たり、1周1,200メートル、幅11メートルの円形馬場として、神奈川奉行が競馬用に柵を設けたものだった。
 この辺の事情を、近代競馬史研究家の早坂昇治は、次のように推測する。

「異境にきた外国人が、たまたま役人の馬場があったので何人かで競馬をしたが、これが、娯楽の少なかった居留外国人の共感を呼び、幕府に交渉して居留地裏の空き地に競馬場をつくらせ、正式に番組をきめて競馬をするようになった…」

 そこを生麦事件の衝撃が襲う。

 生麦事件ののち、横浜居留地の外国人の間では、攘夷の浪人たちが外国人を殺害するのでは、とのうわさが流れ、商店は大半が表戸を閉め、域内で働く日本人も一斉に姿を消すなど、大変な騒ぎとなった。結果、1863年7月、幕府は居留外国人の安全を図るため、外国軍の横浜駐屯を許す事態となる。

 そこで…、

 外国人側は新たな競馬場の建設を要求する(円形競馬場はあくまでも仮の施設であったため、すでに廃止されていた)。生麦事件のような物騒な騒動は二度と御免なので、安全な遊歩道の建設も求める。
 こうして、コースもグランドスタンドも設計はイギリス人が手掛けた根岸競馬場が竣工。1866年、日本に初めての本格的な近代競馬場が登場した。しかも、である。この根岸競馬場は、日本の法律が及ばない居留地にあるという性質上、国内法で禁止されている賭け事が当初から行われていた…。

根岸競馬場

明治20年代の根岸競馬場スタンド(馬見所)横浜開港資料館蔵

 同じころ、

 そう、1866年12月に根岸競馬場が完成したほんの数か月後の1867年2月9日、 江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)でひとりの赤ん坊が生まれた。本名、夏目金之助。長じて英文学者にして、小説家、評論家となる文豪、夏目漱石である。
 実は漱石が生を享けてのちの歩みを見ていくと、日本の近代競馬の進展との不思議な符合が見られる。ただ漱石が競馬に直接かかわったなどの事実はどうやらなさそうだ。だが、漱石のさまざまな足跡を辿っていくと、日本における近代競馬の"揺籃期"とその時代性が見えてくる。
 本書は、その流れを拾っていこうとする、ささやかな試みである。

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