1993年の種付けシーズンも終わりに近づいていた。もはや途方に暮れている余裕などない。振り返ると、ことごとく意に反した種付けの連続だった。
サイレンススズカの母はアメリカ産のワキア。
当初、父親はバイアモンになるはずだった。だが、2度の種付けに失敗し、トニービンに変更になった。
ところがワキアが発情した時には、トニービンは「先約あり」で断念。「どうしたものか」と困っていると、社台のひと言が生産者を救った。
「サンデーサイレンスなら、今日空いてます」
社台がアメリカから輸入した種牡馬だった。
あれこれ迷っている暇はない。この「3度目の正直」に賭けるしか道は残されていなかった。
あとで思えば、これが大当たりだった。なぜなら1990年代後半、サンデーサイレンスの産駒が日本競馬を席捲したからだ。初年度産駒のフジキセキが朝日杯3歳ステークス、ジェニュインが皐月賞、タヤスツヨシが日本ダービー、ダンスパートナーがオークスを制覇するなど、次々とG1勝ち馬を誕生させた。その後のディープインパクト産駒を超える勢いだ。
だが、ワキアの種付けに行ったのはまだサンデーサイレンスの産駒がデビューする前である。ある意味バクチだったが、そのバクチに出た。
1994年5月1日、稲原牧場に一頭の仔馬が生まれた。あだ名は「ワキちゃん」。のちのサイレンススズカである。
牡馬だったが、馬体は小さくて、牝馬のように大人しい。やたら人懐っこくて、可愛がられはしたが、これと言って特徴のない馬だった。
ただ、不思議だったのは、母は鹿毛、父は青鹿毛なのに、この仔は栗毛だったこと。
「両親の組みあわせでは考えられない栗毛が産まれたら、その馬は走らない」
そんな言い伝えがふと頭をよぎった。
そしてもう一つ、ワキちゃんには馬房をくるくると左に回るという、独り遊びのクセがあった。
サラブレッドとしては遅い5月の産まれだったせいか、ワキちゃんの成長は他の馬より遅かった。そのため、焦らずにゆっくりと育てられた。
相変わらず、目立つタイプでは決してなかったが、体だけは相当柔らかかったといい、周囲は「そこそこは走ってくれるだろう」という見立てをしていた。
その評価が大きく期待へと変わったのは、牧場近くの二風谷軽種馬育成センターに移ってから。ここで3歳秋まで過ごすわけだが、馴致が進むにつれて快速の片鱗が見え始めた。
「これは間違いなく走るぞ!!」
育成センターでサイレンススズカにまたがった乗り役たちは、口々に揃えた。とにかくバネが尋常ではない。日に日に評価は高まっていった。
入厩が近づくころ、ちょっとしたトラブルがあった。調教中、脚をぶつけて外傷を負ってしまったのである。このアクシデントによって、大きく予定が狂うことになる。
ケガそのものはたいしたことがない。ただ、入厩が遅れてしまった。そのため、デビューは年明けの4歳(現表記で3歳)の2月まで待たなければならなかった。
一方で、デビューに向けて3歳の冬に栗東の橋田満厩舎へ移った。このころにはオープン馬に先着したり、信じがたい時計を坂路で出したりと、すでに周囲を驚かせる存在になっていた。
(写真は、サイレンススズカを管理した橋田満調教師)
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