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大器の片鱗

大器の片鱗

第2章

大器の片鱗

稀代のオールラウンダー アグネスデジタル

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 アグネスデジタルは、父Crafty Prospector、母の父Chief's Crownという血統で、アメリカ生まれのいわゆるマル外である。Crafty Prospector産駒は、芝よりもダート、中距離よりも短距離を得意としており、アグネスデジタルもデビュー後しばらくは、ダート短距離を中心に使われることになる。

 デビューは3歳(※旧馬齢表記)の秋。1999年9月12日、阪神ダート1400m。鞍上は福永祐一だ。先手を取って逃げの手に出るが、武豊騎乗のマチカネランに交わされ7馬身差の2着に敗れた。

 3週間後の折り返しの新馬戦(ダート1200m)は、1番人気の支持に応えて圧勝した。

「芝でも大丈夫な走りをしている」

 レース後、福永はそう感想を述べた。直後のもみじS(芝1200m)では8着に敗れてしまったが、福永の感触は的確でのちにこの見立ては当たることになる。

 ダートに戻して500万下(京都1400m)で2着したあと、陣営はアグネスデジタルを関東で使うことにした。

 ジャパンカップウィークの東京競馬場。ダート1600m。このレースから鞍上は的場に変わり、以降的場が引退するまで、全レースでコンビを組むことになる。単勝1.8倍の期待に応えて、2着に1.2秒の差をつけて勝ち上がると、翌月には川崎の全日本3歳優駿(交流G2 ダート1600m。現・全日本2歳優駿)に出走した。

 ここでも1番人気に応え、早め先頭から押し切る盤石の内容で勝利した。この勝利で十分な賞金を加算したことにより、当時の外国産馬の最大目標であるNHKマイルカップへ向けて自由にローテーションを組むことが可能になった。

 年が明けて、アグネスデジタルは4歳(※旧馬齢表記)になった。

 陣営は2月のヒヤシンスS(東京ダート1600m)からの始動を選んだ。いつもどおり好位からのレースをしたが、直線でバランスを崩すもろさを見せ、結果は3着。その後、NHKマイルカップを見据えて、再び芝のレースに挑戦することにした。

 クリスタルカップ(中山芝1200m)3着のあと、前哨戦のニュージーランドトロフィー4歳Sも積極的なレースで3着に好走。芝でも十分やれる目処がついた。本番のNHKマイルカップでは4番人気の支持を受けたが、直線で伸びきれず、7着に敗退。この時点ではまだ芝の一流馬と互角に渡り合うには、まだまだ未熟だった。

 再びダートに戻り、6月の名古屋優駿(交流G3 名古屋ダート1900m)を勝つと、つづく7月のジャパンダートダービー(交流G1・大井ダート2000m)では1番人気の支持を集めた。だが、結果は14着と惨敗。好位からレースを進めたものの、直線で脚が上がってしまったのだ。

 このとき的場は、「アグネスデジタルにとって2000mは長い」と感じていた。さらに、厚く敷かれたダートも合わなかった。

 デビューから10カ月で12戦をこなし、4勝。勝ち星はすべてダートだが、芝での内容も悪いわけではなく、陣営は希望を捨ててはいなかった。
 白井や的場は、丈夫であること、走り方が変わってきて成長が見られること、素直でおとなしい性格であることなどから、条件を問わず活躍できる素質を感じていた。

 アグネスデジタルは、7月のジャパンダートダービーの惨敗後、2カ月の休養を挟み、ユニコーンSから始動した。
 当時のユニコーンSは、9月の中山開催、ダート1800mで行われていた。成長著しいアグネスデジタルは、1年前の新馬戦で7馬身差をつけられたマチカネランを破り、3つ目の重賞タイトルを手に入れた。

アグネスデジタル:ユニコーンS

3つ目の重賞タイトルを手に入れた。写真は2000年、ユニコーンS 写真:下野雄規

 調教師の白井は、重賞勝利以上の価値を感じていた。というのも、ユニコーンSは当時、破格の出世レースだったからである。なぜなら、下記にある前年までの勝ち馬をみてもらいたい。

第1回 1996年:シンコウウインディ(フェブラリーSなど重賞3勝)
第2回 1997年:タイキシャトル(マイルCS、安田記念など重賞8勝)
第3回 1998年:ウイングアロー(フェブラリーS、JCダートなど重賞8勝)
第4回 1999年:ゴールドティアラ(南部杯など重賞5勝)

 すべての勝ち馬がG1ウイナーに出世している。アグネスデジタルには、タイキシャトルのような活躍をしてほしい。白井はそう願っていた。

アグネスデジタル:ユニコーンSまでの競走成績

<アグネスデジタル・データ:http://db.netkeiba.com/horse/1997110025/>

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