目次

“世界との差”を見せつけられたスピードシンボリ

“世界との差”を見せつけられたスピードシンボリ

第2章

“世界との差”を見せつけられたスピードシンボリ

世界に挑んだサムライサラブレッド 〜Part1・欧州編〜

目次

 1965年デビューのスピードシンボリは、1967年には目黒記念・春、天皇賞・春を含めて4連勝を飾り、6戦4勝。この年11月12日に米国のローレル競馬場で開催されたワシントンDC国際で招待馬として海外初挑戦。単勝オッズ21倍という最下位の人気ながら5着に入る力走を見せた。

 続く1968年は3連勝を含み7戦3勝。さらに翌1969年、今度は目黒記念・春、ダイヤモンドSで連勝すると、夏から秋にかけて当時としては前例のない長期ヨーロッパ遠征に出たのである。

 この遠征で最初のチャレンジとなったのは、7月26日に英国アスコット競馬場で開催されたキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドSだった。このビッグレースでスピードシンボリは5着に入る健闘を見せる。実際、鞍上の野平祐二騎手は、最後の直線に入り「これは、いける!」という手応えを感じたとレース後に語っている。しかし、そう思った直後、4頭の馬に次々と抜かれていった。当時の日本のトップと言ってもいい競走馬と騎手が肌で味わった“世界との差”と言えるだろう。

 続く8月31日にはフランス・ドーヴィル競馬場でドーヴィル大賞典に出走し、11頭中10着。このドーヴィル大賞典は、スケジュール的にも凱旋門賞の前哨戦として格好のレースだったが、またしても“世界との差”を味わう結果となった。

 そして10月5日、いよいよヨーロッパ遠征の集大成となる凱旋門賞に臨むが、ここでも着外(11着以下)という結果に沈んでしまう。

 1969年といえば「1ドル=360円」の固定レートの時代である。海外挑戦が、いまとは比べものにならないほどハードルが高かった当時、前例のない長期ヨーロッパ遠征を敢行した和田共弘オーナーの決断は評価に値するが、突きつけられた結果は、あまりに苦かった。なにしろスピードシンボリは帰国後の同年12月21日の有馬記念で勝利。さらに翌1970年度末の有馬記念でも勝利し、連覇を達成するのだ。日本国内では圧倒的な実力を示しただけに、“世界との差”が過酷な現実として日本のホースマンと競馬ファンに突きつけられた。

 ヨーロッパのコースは、日本の競馬場と比べれば、はるかに起伏が激しい。逆の言い方をすれば、日本のコースは人工的。平坦な、人工的コースでいくら勝利を重ねても、本場の競馬では勝てないのだろうか。日本のホースマン、競馬ファンたちは、この命題に挑み続けることとなる。

(写真:1969年有馬記念)

© Net Dreamers Co., Ltd.