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深夜に飛び込んできたビッグニュース

深夜に飛び込んできたビッグニュース

第1章

深夜に飛び込んできたビッグニュース

砂漠の地で成就した日本競馬の悲願 ヴィクトワールピサ

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 今でも、まるで昨日のことのようにあの“悪夢の瞬間”が脳裏に蘇る。人や住宅、車を次々と飲み込んでいった巨大津波、倒壊した家屋、広範囲にわたり、町という町は壊滅的な被害に追い込まれた。その様子をとらえたテレビ映像は、とても現実の出来事とは思えないほどの惨状を映し出していた。

 2011年3月11日午後2時46分、宮城県沖を震源とする大地震が東日本を襲った。かつて経験したことのない激しい揺れは、人々から日常を一瞬にして奪った。東北地方の海沿いでは、巨大な津波がすべてを押し流した。ライフラインは寸断され、ガソリンスタンドには燃料を求め、車が長蛇の列を成した。

 スーパーの食料品の棚がからっぽになり、電力不足への懸念から計画停電まで実施された、あの寒く、薄暗かった2011年の春。町中が、いや日本中が、それまで誰も経験したことのないような重苦しい空気に包まれていた。なにより、原子力発電所で起きた事故は、いまだに大きな影を落としている。

 「復興」という言葉がイメージさえできなかったあの時期、日本から遠く8000km離れた中東のドバイから、深夜にビッグニュースが飛び込んできた。

 「ヴィクト史上初ドバイWC制覇 歴史的ワンツー」

 「ドバイWCで日本馬初 ヴィクトワールピサV」

 競馬の世界一を決めるレースで、日本馬が初めて勝利したのだ。

 震災発生から約2週間が経った3月26日の土曜日、日本時間では日付が27日に変わった未明。UAEで行われたドバイワールドカップ(オールウェザー2000m)で、日本から遠征していたヴィクトワールピサが優勝した。2着も日本のトランセンドで、日本馬のワンツー・フィニッシュという結果だった。

 ドバイワールドカップは、1996年、UAEの首長であるシェイク・モハメドによって創設された。

 芝やダート、距離など、さまざまに異なったカテゴリーで覇を競う競馬というスポーツで真の「世界一」を決めることは不可能に近いが、そんななかで「賞金」は、最も説得力を持つ基準のひとつとなりうる。当時の世界最高額となる賞金が用意されたドバイワールドカップは、当初から明確にそういう目的を持って作られたレースというわけだった。

 ケンタッキーダービーやブリーダーズカップクラシックと同じダート2000m(創設当時、及び現在)という条件に設定されたこともあり、ドバイワールドカップにはアメリカの馬と地元UAEの馬を中心として、ヨーロッパ各国、オーストラリアや南アフリカ、そしてアジアなど、まさに世界中から強豪が集まった。

 日本馬は、第1回のライブリマウント(6着)を皮切りに15年で延べ17頭が挑戦していた。しかし、ここまでは2001年にトゥザヴィクトリーが2着に入ったのが最高で、勝利した馬はいなかった。それが、ついに初優勝を飾ったばかりか、日本馬で1、2着を独占してしまったのだ。

 ちなみに、それまで同一国の調教馬がワンツー・フィニッシュを飾ったことは、このレースで圧倒的に強いアメリカの馬が何度かあるだけだった。その後も地元UAEが1度、記録したのみ。まさに奇跡と呼んでいいレベルの快挙だった。

 テレビもラジオも新聞も、メディアというメディアが震災関連のもので埋め尽くされていたこの時期、明るいニュースなんてほとんどなかった。

 プロ野球もサッカーのJリーグも、そして競馬も、開催が延期されたり中止になったりした。電力不足への懸念や施設そのもののダメージもあったが、何より、そんなことをしている場合ではないという暗く切迫した空気がそこにはあった。

 日本中が、気持ちの逃げ場がないような状況に追い詰められているなかで届けられた、ヴィクトワールピサによるドバイワールドカップ制覇のニュース。それはまるで暗闇に射した一筋の光のように、僕たちの心を照らしたのだった。

(写真:2011年ドバイワールドカップ)

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