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教頭先生と競馬

教頭先生と競馬

第1章

教頭先生と競馬

池江泰郎物語

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 「当時はのんびりした、いい時代やったですよ」

 懐かしそうに当時を振り返る池江泰郎の表情は、じつにうれしそうである。池江が生まれた昭和16年当時、宮崎県都城市は本当にのどかな町だった。近くの農家には農耕馬がいて、小学4年生くらいまではバス替わりに馬車が走っていた。駅まで行くときには馬車に揺られて行ったものだった。あるときには、花嫁が馬車に揺られ、村の皆が家から出てきて見送る光景を目にした。

 「あぁ、あの人は結婚するんだなぁ」

 漠然と見ていた景色のなかに馬がいた。しかし、直接馬に触れることはなかったし、生家は農家でもなかった。だから、中学3年生のある日、廊下を歩いていたときに目にしたポスターをさして気にも留めなかった。

 「馬に乗る仕事があるのかぁ」

 職業安定所から送られてきた、馬事公苑騎手養成長期課程生募集のポスターが3学期頃に張り出されていたが、それくらいの関心だった。当時は中学校を卒業したら「金の卵」といわれる時代。同級生の8割ほどが就職したのではないだろうか。とくに池江は父を戦争で亡くしている。親に負担はかけたくない。友人と一緒に試験を受け、大阪でコックになることが決まっていた。二人で一緒に行こう! と意気揚々としている最中だった。突然、教頭先生に呼び出された。何も悪いことはしていないはず…と不思議に思いながら行ってみると、こういわれて驚いた。

 「池江、ポスターを見たか? 馬事公苑に行ってみ」

 小柄な体格と器械体操で培った機敏な動きが騎手に向いているのではないか、と思ったのだろう。戦前には、宮崎競馬場に行ったことがあったほど競馬に造詣の深かった教頭先生は、初めて知る「騎手」という職業のことを詳しく教えてくれた。

 しかし、池江には大阪でコックになる約束をしていた友達がいた。どちらの道を選ぶか大いに頭を悩ませたが、教頭先生の話を聞くにつれ、徐々に興味は「騎手」に移っていった。そして、家に帰って母に相談。ところが、その答えは思わしいものではなかった。

 「わざわざ危険な道を選ばなくても、安定した職業でいいから」

 それは女手一つで生計を立て、育ててくれた母の願いだった。思わぬ母からの反対に池江は葛藤したが、そんな母を説得してくれたのもまた教頭先生だった。家まで来ていろいろと説明し、母も内容は理解してくれた。依然、反対はしていたが、最終的に池江が決断してからは嫌々ながらも納得したのだった。

 そうして宮崎競馬場に試験を受けに行った池江は見事に合格。そして偶然にも、近くの町で器械体操をしていた野元昭もまた宮崎競馬場で受験し、合格していた。程なく、二人は一緒に夜行列車に乗って上京することとなった。横になって休める寝台席は高価だったため、木の椅子に座りながら丸1日以上揺られる長旅ではあったが、これから新しく始まる人生への高揚感で、そんな疲れも吹き飛んだ。

 このとき、あれだけ反対していた母がおにぎりを持たせてくれた心遣いに、池江は子供ながらに感謝していた。長旅のあいだに次第に固くなり、隣の席の人には「そんなに固いのを食べなくても、お弁当が売っているじゃないか」といわれたが、母が最後まで「これが弁当」といって作ってくれたことを考えれば、しばらく食べられなくなるであろう“お袋の味”を残すことなどできなかった。

 そうして27時間ほどかかっただろうか、ようやく東京・渋谷に着いた。親戚に連れられ馬事公苑に行く途中、食堂に入った。そこで生まれて初めてテレビを見た。宮崎にはまだテレビなどなかった。都会の最新家電に釘付けになり、何を食べたのかも覚えていないほど鮮烈な衝撃だった。

 そして馬事公苑で池江は、初めてまともに馬を触ることとなる。これが生涯の仕事となるサラブレッドとのファーストコンタクトであった。乗馬ズボンなるものがあることも、ここで初めて知った。学生服を着ていったため、しばらくは学生服で馬の手入れを行っていたが、教官が古い作業着を持ってきてくれた。こうして池江は、騎手への第一歩を踏み出した。今でこそ、テレビやゲームの影響などで騎手を志す者は少なくないが、当時、競馬界にまったく縁故のない者が飛び込んだのは、池江が初めてのことだった。

(扉写真:馬事公苑で馬学の授業を受けている模様/1950年代後半)

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