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「世紀の対決」の背景

「世紀の対決」の背景

第1章

「世紀の対決」の背景

時代が生んだ世紀の一戦 1992年天皇賞・春 〜トウカイテイオーVSメジロマックイーン

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 日本の近代競馬は、文久2年(1862年)、横浜の居留外国人によって始まったとされている。19世紀、20世紀、そして21世紀と、3つの世紀に跨り、150年を超えて続いてきたその長い歴史のなかで、広く「世紀の対決」と呼ばれたレースは、じつは1つしかない。

 それが1992年の天皇賞・春。トウカイテイオーとメジロマックイーンによる、最初で、そして最後の対決となった一戦だ。

 文字通り、100年に一度。異様な盛り上がりなどというありきたりな言葉では到底表現しきれなかったその熱狂は、なぜ、どんなふうにして起こったのか。

 ひとついえるのは、その背景では競馬自体が空前の「ブーム」を迎えていたということだ。

 それまでにも、そしてその後も。競馬が大ブームとなり、社会現象と呼べるほどの盛り上がりを見せたことは何度かある。

 最初の「第一次競馬ブーム」は1973年、ハイセイコーの登場によって巻き起こった。

 日本をオイルショックが襲ったこの年。地方競馬出身の「雑草」ながら中央へ殴り込み、ダービーへと駒を進めていったハイセイコーは、瞬く間にアイドル的人気を博した。『週刊少年マガジン』の表紙を飾り、主戦騎手の増沢末夫が歌った『さらばハイセイコー』はオリコンチャートで最高4位を記録した。同馬が引退した翌年の1975年、中央競馬の観客動員数は当時最高となる1500万人に達している。

 最も新しい「第三次競馬ブーム」は、2005年の3冠馬ディープインパクトをめぐるものだった。

 異次元の末脚を誇る史上最強馬という、これ以上ないくらいわかりやすいヒーローの登場は、とくに新聞、雑誌、テレビといった一般メディアの報道をヒートアップさせた。渡仏して出走した2006年凱旋門賞はNHKで中継され、深夜にもかかわらず平均視聴率は関東で16.4%、関西では19.7%を記録。瞬間最高視聴率は関東で22.6%、関西ではなんと28.5%にも達した。

 しかし、150余年の歴史のなかで、最も競馬が熱く盛り上がった時期をひとつだけ挙げるならば。それは1980年代末から1990年代初頭にかけての、「第二次競馬ブーム」ということになるだろう。

 バブル景気を背景に、オグリキャップという稀有な存在を引き金として、競馬はあらゆる意味で社会に浸透し、市民権を得ていった。G1での競馬場の入場制限は当たり前。WINSの窓口には長蛇の列ができて、信じられないことにその行列は最寄りの駅まで続いた。毎年10%以上伸び続ける馬券売り上げは、1990年に史上初めて3兆円を突破。その後もおおむね上がり続け、1997年にはピークの4兆円に達している。

 このブームで特筆すべきは、ハイセイコーやディープインパクトのときとは違い、それがオグリキャップただ1頭の人気に依ったものではないということだった。同馬を中心に、タマモクロスやスーパークリーク、イナリワンやヤエノムテキ、サッカーボーイなど、多くの個性的な競走馬たちが鎬を削りあう、さながら群像劇のようなドラマに、ファンは熱狂したのだった。

 1990年暮れ。有馬記念でオグリキャップは劇的なラストランを飾り、ターフを去った。その後、バブル景気は崩壊し、緩やかな後退局面へと入っていくが、先述の通り、いったん火の付いた競馬ブームはそこからむしろ加熱していく。

 オグリキャップは、ついに引退した。ここから次の時代が幕を開ける。新しいドラマが始まる。

 そんな空気に満ちた競馬界に、まるでオグリキャップからバトンを受け継ぐようなタイミングで現れ、人々の熱狂の対象となったのが、2歳下のメジロマックイーンであり、さらにその1歳下のトウカイテイオーなのだった。

(扉写真:'90有馬記念/オグリキャップ ラストラン)

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