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競馬を文芸にした奇才――寺山修司(前編)

競馬を文芸にした奇才――寺山修司(前編)

第1章

競馬を文芸にした奇才――寺山修司(前編)

競馬を愛した文士たち(下巻)

目次

カモメは飛びながら歌を覚え、人生は遊びながら年老いていく。遊びってのは、もうひとつの人生なんだな。人生じゃ負けられないようなことでも、遊びでだったら負けることができるしね

 コートを羽織った長身の男が街を歩く映像に、モノローグが重なる。

 これは1973(昭和48)年秋に流れた、日本中央競馬会のテレビCM。ぼそぼそと呟くように語る男が寺山修司(てらやま・しゅうじ、1936-1983)である。

 詩人、歌人、劇作家、演出家、映画監督、作詞家、脚本家、そして俳優として、さまざまなジャンルで活躍した寺山は、競馬エッセイストとしても才能を発揮し、競馬と文芸を融合させる役割を果たした。

 CMの寺山による語りはこうつづく。

人は誰でも遊びっていう名前の劇場を持っていてね(略)そこで人は主役になることもできるし、同時に観客になることもできる

 寺山は、馬と競馬を通じて自身を見つめつづけた。いや、自身を含む人間たちの生きざまを見つめつづけた、と言うべきか。

その後キーストンは再び連勝しはじめた。私はキーストンが逃げ切るたびに、うまく警察の手をのがれている李のことを思った。キーストンの出走するレースは、さながら李からの便りなのであった

 1965(昭和40)年のダービーを逃げ切ったキーストンについて、『競馬への望郷』所収「逃亡一代キーストン」にこう記した。逃げ馬キーストンに、追手から逃れようとする李という知人の姿を重ねたのだ。

1965年のダービーを逃げ切ったキーストン(写真:JRA)

 また、戦後初の三冠馬シンザンに負けつづけたウメノチカラを描いた掌編「同級馬ウメノチカラ」も面白い。

小学校時代の同級生に梅野力という男がいた。(略)成績はクラスで最低で、走るのは極端に遅く、運動会ではいつもビリだった。(略)私は中山競馬場の三歳オープン戦で、同級生の梅野と同姓同名のウメノチカラという馬を発見した

 本当にそんな同級生がいたのかどうか怪しみながら読みはじめたのに、いつの間にか作中に引き込まれてしまう。そして、肝心なところで負けてばかりのウメノチカラと同じ名の梅野力が、今、どうしているのか気になってくる。

 寺山の目は、頂点より底辺、強者より弱者、勝者より敗者に向けられた。それは、頂点にいた者が一瞬にして最底辺にまで突き落とされる競馬の危なっかしさに惹かれていたからではなかったか。強者や勝者でいることの儚さにも魅力を感じていたのだろう。

 そう思わせる作品のひとつが「さらばハイセイコー」だ。1970年代前半、地方から中央入りして連勝街道を突き進んで国民的アイドルになったハイセイコーは、74年の有馬記念で2着に敗れたのを最後に引退した。そのさいに詠んだ惜別の詩である。

ふりむくと
一人の少年工が立っている
彼はハイセイコーが勝つたび
うれしくて
カレーライスを三杯も食べた

 こう始まった詩は、失業者、車椅子の少女、酒場の女、運転手、非行少年らのハイセイコーに対する思いへとつながっていく。

 それにつづくクライマックスは、今読んでも泣けてくる。

ふりむくな
ふりむくな
うしろには夢がない
ハイセイコーがいなくなっても
すべてのレースが終わるわけじゃない
人生という名の競馬場には
次のレースをまちかまえている百万頭の
名もないハイセイコーの群れが
朝焼けの中で
追い切りをしている地響きが聞こえてくる

 この詩の「ハイセイコー」を、自分が最も好きだった馬に置き換えて読むと、ひとつひとつの言葉が、また違った強さで胸に迫ってくる。

 誰よりも大きな喜びを与えてくれた馬が去って行くとき、私たちは、それと同じくらい大きな悲しみを感じる。しかし、その悲しみはやがて胸のなかで姿を変え、あたたかなものが残る。

 だから私は競馬が好きなのだ――寺山修司の作品に触れるたびに、自分のそうした思いに気づかされる。

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