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第1、2コーナー〜モーリスが香港に辿り着いた理由

第1、2コーナー〜モーリスが香港に辿り着いた理由

第2章

第1、2コーナー〜モーリスが香港に辿り着いた理由

モーリス ラストラン回想録

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 皇帝・シンボリルドルフ、アメリカ遠征で惨敗───1986年の春、日本競馬界に衝撃が走った。レース中に左前脚繋靭帯炎を発症していたという理由が後々になって判明したものの、その結果がもたらした負のインパクトは拭えなかった。

 思い起こせば日本競馬界は、長らく海外で戦果を挙げられずにきた。1959年、事実上アメリカ競馬界へ移籍し、現地の調教師、騎手のもと重賞馬となったハクチカラ以降、日本馬海外遠征史には悉く黒星が並んだ。

 そこに畳み掛けるように『皇帝の惨敗』 という大きな黒星が並べられたこともあり、シンボリルドルフ敗北の翌年〜1992年までの5年間、日本馬の海外遠征はただ1頭のみという状況に陥る。勝利ではなく、挑戦そのものがなくなったのだ。

 そんな日本競馬に漂いつつあった閉鎖的な雰囲気を変えたのが、香港競馬の発展だった。香港マイルの前身である香港招待ボウルが1991年に設立されると、93年春にホクセイシプレーが参戦。日本馬として6年ぶりの海外遠征を果たす。

 欧米ではなくアジアへの遠征というのもこれまでとは違った海外挑戦であったが、これまでと異なる点はそれだけではなかった。ホクセイシプレーの重賞実績は1勝。 7冠馬シンボリルドルフやダービー馬シリウスシンボリといった、その時代その時代の日本競馬界を代表するような馬の遠征ではなかったのだ。

 結果は惨敗だったものの、たった1度のその遠征が、日本競馬界全体の海外遠征に対する概念を変えた。同年の冬には2頭が、その翌年には3頭が、次々に香港へと挑戦する。さらに年が明けて1995年には、香港遠征馬3頭に加え、アメリカやフランスへの遠征馬も出現。

 そして年末、3度目の香港遠征を敢行したフジヤマケンザンが待望の白星を獲得し、36年ぶりとなる日本馬による海外重賞制覇を達成する。フジヤマケンザンも、日本ではGIで惨敗が続いている、飛びぬけた実績を持つわけではない重賞馬であり、稀代の名馬という評価を得ていたわけではなかった。

 以降、香港は日本馬にとって馴染み深い海外遠征の舞台となり、力試しに海を渡る馬は増加した。そして日本競馬界は海外遠征のノウハウを蓄積していき、気がつけば、日本馬の名前を欧米、ドバイの大レースで見かけることも珍しくなくなった。

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