目次

幼少期から垣間見えたポテンシャルの高さ

幼少期から垣間見えたポテンシャルの高さ

第2章

幼少期から垣間見えたポテンシャルの高さ

スペシャルウィーク (上)

目次

 1995年の秋、日高大洋牧場にはニュージーランドからティナという名の女性が働きに来ていた。小野田宏代表は、キャンペンガールの仔馬の育成を、このティナに担当させることにした。母親の愛情を知らずに育った仔馬にとって、当たりのやさしい女性のほうが合うのではないかとの判断からだった。

 仔馬には、まずはブレーキング(馴致)で背中に人を乗せることを覚えさせるのだが、キャンペンガールの仔馬は、人のいうことをよく聞く、非常に扱いやすい馬だった。すぐに人を乗せることを覚え、成長を見守る仔馬の段階から競走馬としての育成段階へと順調に移行することができた。

 育成段階に入ると、仔馬はさらに賢さを見せた。ティナが教えることは何でもすぐに理解し、次々とできるようになっていった。ティナは教えれば教えるだけ成長する仔馬に惚れ込み、夢中になっていった。キャンペンガールの仔馬にだけ、他馬の何倍もの時間をかけて世話をした。仔馬の体をすみからすみまで入念にチェックし、丁寧に手入れをした。

 しかし、当然ながら、これによって他馬の世話にかける時間が極端に短くなってしまった。ティナの担当は、キャンペンガールの仔馬1頭だけではない。何頭も担当を持っていたのだが、この1頭の仔馬にばかり手間と時間をかけてしまうので、他馬の世話がおろそかになってしまっていた。

 小野田代表は何度も口酸っぱく注意したが、ティナは「この仔は私が世話をしなければならないのです」といい、その行動はまったく変わらなかった。仕方なく、他のスタッフがティナの担当馬の世話を手伝うはめになった。

 ある日、小野田代表はそろそろ本格的に走りを覚えさせようと、ティナに15−15(1ハロン15秒程度)で走らせるように指示を出した。ティナはうれしそうに仔馬に跨り、走らせた。ところが、まったくペースが上がらない。まるで遊びながら走っているようだった。

「遅すぎる。ティナは何をやっているんだ。これでは調教にならない」

 馬を止めて注意しようと思った小野田代表は、時計を見て目を疑った。なんと1ハロン14秒台を出していたのである。

「走り方とスピード感がまるっきり違う。本気で走ったら、どこまで速くなるんだ」

 小野田代表は、改めてこの仔馬の潜在能力に驚かされた。

 キャンペンガールの仔馬の世話が生きがいにまでなっていたティナに、突然の別れがやってきた。1997年5月(仔馬2歳、当時の馬齢では3歳)、キャンペンガールの仔馬は、育成牧場のノーザンファーム空港牧場へと移ることになったのである。これは、入厩予定の白井寿昭調教師と臼田浩義オーナーの意向によるものだった。

 もちろん、日高大洋牧場にも育成施設はあるのだが、早い段階から、より設備の整った大規模な育成牧場で育成したほうがいいだろうという判断だった。そして、白井調教師にとっては、もうひとつ、大きな理由があった。ノーザンファーム空港牧場には、白井調教師の息子、白井秀幸厩務員が勤務していたからである。息子の勤務する牧場に預ければ、いつでも気兼ねなく連絡を取り合え、些細なこともお互いに伝え合うことができる。

 日高大洋牧場の小野田代表と白井調教師はお互いに深く信頼し合う仲だったが、親しき仲にも礼儀ありで、やはり親子で連絡を取り合うようにはいかない。息子に管理を任せることで、白井調教師は栗東にいながらにして、馬の様子を手に取るように知ることができる。そのメリットは、計り知れないほど大きいと考えていた。

 だが、ティナはどうしても納得できなかった。トレセンへの入厩は秋を予定していたので、10月か11月ぐらいまでは、仔馬と一緒にいられると思っていた。それなのに、思っていたより半年近くも早く、しかも突然に別れがやってきたのだ。

 競馬のためにトレセンに行くならわかる。しかし、日高大洋牧場でもできる育成を、しかも自分がやっていたことを他の牧場に任せるというのは、どうにも納得がいかない。ティナは小野田代表に泣いてすがったが、小野田としても調教師とオーナーの意向ではどうしようもなかった。

「この仔馬を強くするためなんだ」

 そういうしかなかったが、ティナが納得するはずもなかった。5月20日、泣きじゃくるティナから無理やり引き離された仔馬は、馬運車に乗せられ、日高大洋牧場を後にした。

 ノーザンファーム空港牧場では、キャンペンガールの仔馬を、尾形重和獣医の管轄のもと、白井調教師の息子の白井秀幸厩務員が担当することになった。もちろん、白井調教師との密な連絡を期待しての担当配置である。ちなみに、尾形獣医は美浦トレセン所属の尾形充弘調教師のいとこに当たる。

 じつは、このキャンペンガールの仔馬の入厩直前まで、のちにグラスワンダーと名付けられ、この馬と激闘を繰り広げることになる同い年の仔馬が、ノーザンファーム空港牧場で育成に励んでいた。このときグラスワンダーはすでに尾形充弘厩舎に入厩していたが、尾形調教師がいとこの尾形獣医のいるこの牧場に預けたのも偶然ではなく、やはり連絡を密に取り合えるからに他ならなかった。

 グラスワンダーは牧場内でも突出して目立つ存在だった。だが、尾形獣医はキャンペンガールの仔馬の走りを見て、それにもヒケを取らないほどの馬であることを見抜いていた。白井厩務員に、この2頭はどちらの馬もズバ抜けて素晴らしいと伝えていた。

 白井厩務員は、キャンペンガールの仔馬に跨ると、その走りの軽快さにすぐに魅了された。さらに、教えることをすぐに自分のものにして、できるようになる賢さにも驚いた。ただ、気になることがあった。よく物見をして、走りに集中できないことがあったのである。

 より自然に近いほうがリラックスして走れるだろうと思い、両脇が林になっているコースを中心に調教をしていたのだが、警戒するように林のほうを気にしたり、鳥が飛び立つだけでビックリして暴れたりすることもあった。ブリンカーやシャドーロールを付けるなど、いくつかの手を試みたが、改善されることはなかった。

 そこで白井厩務員は、コースそのものを変えてみることにした。事務所棟に程近い、人工物が多く見えるコースで走らせることにしたのである。すると、それまでのような物見をせず、走りに集中するようになり、これまで以上にいい走りを見せるようになっていった。

「普通は人間のいる建物が見えるコースより、自然に囲まれたコースのほうが落ち着いた走りをするものだが…。生まれたときから人の手で育てられたと聞いているが、そういう影響もあるのかもしれないな」

 白井厩務員はそんなことを考えながら、キャンペンガールの仔馬の柔らかい走りを堪能していた。

 キャンペンガールの仔馬は、ノーザンファーム空港牧場での約4カ月の育成調教を経て、9月19日、白井寿昭厩舎のある栗東トレセンに向かった。翌20日、無事に厩舎に到着し、白井厩舎に入厩。担当厩務員には、村田浩行調教助手が選ばれた。

 村田厩務員は、白井厩舎所属のオークス馬ダンスパートナーの担当でもあった。白井調教師は、キャンペンガールの仔馬がダンスパートナーに似ていると感じていたこともあり、同じように育ててくれたらと期待して、村田厩務員に任せることにした。

 そして、白井調教師はスタッフを集めてこう宣言した。

 「この馬でダービーへ行こう!」

 本気が半分、スタッフへの鼓舞が半分といった気持ちだったが、ダンスパートナーでオークスを勝った経験から、「この牡馬ならダービーも」という気持ちも強かった。ただ、「ダービーを勝とう」ではなく「ダービーに行こう」という表現からもわかるように、この段階ではまだ「勝てる」という自信まではなかったと言える。もっとも、入厩してきた新馬を見て、自信満々で「ダービーを勝てる」と言い切れる調教師はいないかもしれない。

 キャンペンガールの仔馬はスペシャルウィークと名付けられた。臼田オーナーが、父馬のサンデーサイレンスの「サンデー」から連想した「ウィーク」に「特別な馬」という意味で「スペシャル」を付け、この名前になった。

 ノーザンファーム空港牧場の白井厩務員は、スペシャルウィークが父親の厩舎に入厩したあとも、気になって仕方がなかった。ことあるごとに、いや、何もなくても父親に電話を入れた。

「あの馬、絶対に走るから、(武)豊さんに乗ってもらったらいいよ」

「豊さん、もう乗った? まだなの? なんでまだ、乗ってないの?」

「豊さん、乗った? なんて言ってた?」

 いち新馬の中間調教に武豊騎手がいきなり乗るわけがないのだが、白井厩務員にとってそれほど期待の大きな馬だったということがよくわかる。だが、実際にこの馬が武豊騎手に大きなタイトルを与えてくれる馬になるとは、このときはまだ誰も知る由もなかった。

© Net Dreamers Co., Ltd.