目次

血まみれのアクシデント

血まみれのアクシデント

第2章

血まみれのアクシデント

メイセイオペラ

目次

 1997年9月23日、早朝3時。水沢競馬場のコースで調教に精を出していた柴田洋行厩務員(当時)の元へ、同僚が血相を変えて飛んできた。

「オペラが大変なことになった。早く厩舎に戻れ!」

 柴田厩務員はまったく状況がつかめなかったが、あわてて厩舎へ向かう。するとメイセイオペラが、血まみれになっているではないか。鼻から大量の血を流しながら洗い場に繋がれて、ガタガタ震えている。

「朝一番に馬房を覗いたときは、なんの問題もなかったのに。おとなしくて、すごく扱いやすい馬なのに…」

 愛情を注いできた担当馬の痛ましい姿を見て、ハタチの柴田厩務員は、茫然と立ち尽くした。その日は仕事にならなかった。

 メイセイオペラはこの朝、ユニコーンステークスに向けて1週前追い切りを予定していた。予定時刻を過ぎてもオペラがコースに現れないことに首を傾げていた菅原騎手も、知らせを受けて駆け付けた。菅原騎手もまた、血まみれのオペラを目の当たりにして、言葉を失った。

 右目の周りが酷く腫れた。1週間も鼻血が止まらず、飼い葉も食べなくなった。診断は「前頭骨の骨折」。体を横たえた状態から起き上がるとき、右目の上を、馬房のどこかに強くぶつけたらしい。不可抗力の事故。柴田厩務員は不眠不休で看病した。

 幸い、脚元は無事だった。失明の恐れもあったが、視力に影響がないことがわかった。ケガから2週間後には、軽い運動を開始。3週間後には、コースで調教できるようになった。「頭がよくて、無駄な動きはしない」というメイセイオペラの真面目な性格と、陣営の懸命なケアが、驚異的な回復をもたらしたのだ。

 ケガをする前のプランは、10月のユニコーンSから11月のダービーグランプリ(盛岡)を経て、同じく11月のスーパーダートダービー(大井)へ向かうというもの。ユニコーンSは回避を余儀なくされたが、陣営は協議を重ねて、ダービーグランプリへの出走を決意した。1カ月足らずの調教で臨むことになるが…佐々木調教師には、長年の厩務員経験にもとづく信念があった。

「強い馬と走ることで強くなる。強豪と戦うことで、壁を乗り越えていける」

 調教不足は否めないが、挑戦することに意味を見いだした。16歳で佐々木厩舎の一員となり、馬づくりを学んできた柴田厩務員は、「先生を信じよう」と思った。

 2番人気に推されたダービーグランプリは、10着に沈んだ。地元の期待に応えることはできなかったが、右のまぶたを腫らしながらも、懸命に走った。スーパーダートダービーにも挑戦したが、10着に敗れた。

 競走馬は繊細な生き物だ。たとえケガは完治しても、精神的なダメージの影響で、全力で走ることができなくなってしまう馬がいる。陣営の胸中を不安がよぎった。連戦連勝を重ねた頃のオペラには、もう戻れないのかもしれない―――。

© Net Dreamers Co., Ltd.