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プロローグ −歴史に残る「マッチレース」

プロローグ −歴史に残る「マッチレース」

第1章

プロローグ −歴史に残る「マッチレース」

たった一度っきりの“マッチレース”

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 いわゆる競馬の「名勝負」は、いくつかの典型的な形に分類される。手に汗握る大接戦や、その正反対の派手な圧勝、あるいは大逆転劇などは、そこにレベルの高さや背景の物語性を伴ったとき、長く後世まで評価されるものとなる。

 そんなパターンのひとつに「マッチレース」がある。でもじつは、いざその形の「名勝負」の例を思い出そうとすると、案外と少ないことにも気づかされる。

 最後の直線で2頭が抜け出し、後続を引き離して競り合う「名勝負」はたくさんある。1981年天皇賞(秋)のホウヨウボーイとモンテプリンス。1993年天皇賞(秋)のヤマニンゼファーとセキテイリュウオー。2012年ジャパンCのジェンティルドンナとオルフェーヴル。まさに枚挙に暇がない。でも、それらは確かに「一騎打ち」だけど、「マッチレース」と呼べるまでのものではない。

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1993年天皇賞(秋)

 もともと「マッチレース」という言葉は、最初から2頭だけの、他に出走馬のいない状態で行うレースを指している。高額な賞金をかけて行われるが、レース体系のなかで確固たる位置づけを持つものではなく、興行的な色合いが濃い。というか、ほぼその動機しかない。

 日本では記録に残る形で行われた例はない。しかし、かつて欧米ではよく行われていた。とくに20世紀に入ってからは、アメリカでいくつもの興味深いマッチレースが行われている。

 1938年にピムリコ競馬場で行われたシービスケットとウォーアドミラルのマッチレースは、当時の西海岸と東海岸の最強馬による対決で、まさに全米を熱狂させた。その様子は、映画『シービスケット』のなかでも感動的に描かれている。

 1975年のベルモントパークでは、その年のケンタッキーダービー馬フーリッシュプレジャーと、無敗でニューヨーク牝馬3冠を制した米国史上最強牝馬ラフィアンとのマッチレースが行われた。ハイペースで競り合うなか、ラフィアンが骨折で競走を中止し、それがもとで死亡してしまったこのレースは「悲劇のマッチレース」として今も語り継がれている。

 ちなみにラフィアンの当歳時に世話をしていたのは、当時アメリカの名門牧場クレイボーンファームで修行中だった日本人の岡田繁幸氏だった。岡田氏が帰国後に設立したクラブ法人「サラブレッドクラブ・ラフィアン」の名が同馬から取ったものであることは、よく知られている。

 そうした「マッチレース」は、レース体系の整備とともに、現在はアメリカでもほぼ行われなくなった。それでも僕たちは、ごく稀に「まるでマッチレースのような」闘いを目撃することがある。通常のレースなのに、レベルや背景や展開などが偶然、ひとつの方向に集約されて出現するそのレースは、見たことはなくとも、本来の「マッチレース」の興奮を十分に思い起こさせる。

 1977年の有馬記念は、まさにその頂点のような例だ。テンポイントとトウショウボーイがスタート直後から2頭で先頭を争い、何度も順番を入れ替えながら最後まで競り合ったこのレースは、日本競馬史に残る名勝負として今も語り継がれている。

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1977年有馬記念

 アメリカにもある。1989年3冠の第2戦プリークネスSは、逃げるイージーゴーアに3番手からサンデーサイレンスが迫り、3コーナーあたりから長く、壮絶な一騎打ちを繰り広げた。結局、2頭は3冠とその年のブリーダーズCクラシックの計4度対戦し、すべてワンツー決着。そのライバル関係自体が長い「マッチレース」だったともいえる。

 そんな「マッチレース」的な名勝負の代表と呼ぶべきレースが、もうひとつある。1996年の阪神大賞典だ。

 ナリタブライアンとマヤノトップガン。2年前の年度代表馬と、前年の年度代表馬が鎬を削ったこのレースは、GIIにもかかわらず、いまだに忘れがたいレースとしてファンの記憶に残り、語り継がれ続けている。

 あの「名勝負」は、いかにして生まれたのか。なぜ今も、僕たちにとって大事なものであり続けているのだろうか?

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