目次

「暮れの風物詩」の記憶

「暮れの風物詩」の記憶

第1章

「暮れの風物詩」の記憶

テンポイント 40年を経ても色褪せない名勝負

目次

 暮れの風物詩となっている伝統のグランプリ、有馬記念。今年、2017年で62回目を迎える。関係者にとっては一年の総決算。年度代表馬などのタイトルもかかってくるため、グランプリウィークには重々しいまでの緊張感が漂う。

 独特の張りつめた空気がそうさせるのか、有馬記念は、他のレースでは見られないような大激戦になることが多い。師走の中山競馬場を舞台に、これまで幾多の名勝負が繰りひろげられてきた。

 なかでも「史上最高のマッチレース」と言われ、今なお伝説として語り継がれているのが、40年前、1977年の有馬記念だ。主役は「流星の貴公子」テンポイントと「天馬」トウショウボーイ。2頭の名馬の意地とプライドが、スタートからゴールまで激しくぶつかり合い、人々を熱狂させた。

1977年 第22回有馬記念

スマートフォンで動画が再生できない場合

(映像:中日映画社、実況:ラジオNIKKEI)

 伝説の「TT対決」が繰りひろげられた1977年、元号で言うと昭和52年はどんな年だったのか。

 競馬との絡みを中心に、少しさかのぼって見てみると――。

 シンザンが戦後初、史上2頭目のクラシック三冠馬となった1964年、東京オリンピックが開催された。それを機に日本は高度成長期に突入し、国民の生活は急速に豊かになっていく。ところが73年のオイルショックで経済成長は失速し、多くの日本人が自信を失いかけていた。そこに「野武士」ハイセイコーが登場する。地方出身でありながら、中央のエリートどもをバッタバッタとなぎ倒し、皐月賞を優勝。ダービーこそ3着に敗れるも、力強い走りで多くの人々を勇気づけた。そして、「東京都ハイセイコー様」で年賀状が届く国民的アイドルとなった。

 時代を慰めたハイセイコーが74年限りで現役を退き、少し静かになるかと思われた競馬界に現れたのが、テンポイント、トウショウボーイ、グリーングラスの「TTG三強」であった。

 TTG三強は同じ73年に生まれ、旧4歳になった76年にクラシックを戦った。

 76年というと、列島がロッキード事件で揺れた年だ。「灰色高官」「記憶にございません」などが流行語となり、また、戦後生まれが人口の半数を超えるなど、新時代の到来を告げた年でもあった。

 翌77年、ピンクレディーが人気を博し、カラオケが大ブームとなり、スポーツ界では王貞治が756本の本塁打世界最高記録を樹立した。そして、この年の有馬記念がテンポイントとトウショウボーイによる歴史的マッチレースとなる。

 昔から「競馬は世をうつす鏡」と言われている。TTG三強がしのぎを削った70年代後半は、大混戦となったターフの様相そのままに、日本が混迷をきわめるなか、さらなる近代化へ向け、人々が次々と新たな価値観を受け入れながら突き進んだ時代であった。

ロッキード事件 写真:ZUMA Press/アフロ

 1977年12月18日、第22回有馬記念の出走馬は8頭。

 1番人気に支持されたのは、鹿戸明が騎乗するテンポイントだった。2番人気は武邦彦のトウショウボーイ、3番人気は嶋田功のグリーングラス、4番人気は郷原洋行のプレストウコウ。8頭立ての少頭数とはいえ、半数の4頭がGI級レースの勝ち馬で、うち3頭がTTG三強だったのだから、超豪華メンバーと言うべきだろう。勝算のない馬が避けたがゆえに、少頭数になったのだ。しかも、トウショウボーイがここを最後に引退することが発表されていたため、これがTTG三強による最後の直接対決となることがわかっていた。

 TTG三強の戦いが、かくも熱く、そして激しくなり、多くの人々の心をとらえたのは、レースの質の高さもさることながら、三強それぞれの個性によるところが大きい。

 特にテンポイントは、端正なルックスからは想像もつかないような、特異なプロフィールの持ち主だった。数奇な運命を辿る「流星の貴公子」は、競馬史から抹殺されそうになった血を宿す「亡霊の孫」だったのだ――。
(扉写真:報知新聞/アフロ)

© Net Dreamers Co., Ltd.