目次

「砂の女王」を襲った自然の猛威

「砂の女王」を襲った自然の猛威

第2章

「砂の女王」を襲った自然の猛威

世界に挑んだサムライサラブレッド 〜Part2・ドバイ編〜

目次

 日本調教馬はドバイ・ワールドカップに1996年の第1回から出走している。

 1996年にはライブリマウント、1997年には牝馬・ホクトベガがそれぞれ挑戦している。両馬ともに挑戦の前年に「JRA賞最優秀ダートホース」に選出されている名馬だった。

 前述の通り、ドバイ・ワールドカップは第1回から第14回までダート2000メートルで争われている。

 ライブリマウントの第1回での挑戦は、6着という結果でノーインパクトに終わるが、続くホクトベガは日本国内で「砂の女王」と呼ばれ、大きな期待を背負っての挑戦だった。

 1993年のデビュー以来、ダートで3戦2勝の成績を残していたホクトベガは、4戦目のフラワーC(G3)で芝コースも制覇。さらには同年11月のエリザベス女王杯(G1)も勝利する。しかし、翌1994年は芝で6戦2勝、さらに1995年はダートで1勝したものの芝では10戦0勝に終わってしまう。

 転機となったのは1995年6月13日の川崎競馬場だった。同年から中央と地方競馬の交流が盛んに行われるようになり、川崎競馬場伝統の牝馬限定重賞「エンプレス杯」に出走することになったのだ。

 水溜りが出来て田んぼのような不良馬場で行われたレースだったが、一頭だけ別次元の走りを見せ、2着以下を全て子供扱いにする18馬身差という圧倒的な力を見せつける。「砂の女王」伝説が始まった瞬間だった。

ホクトベガ:川崎記念

ホクトベガ 1997年川崎記念 写真:今井寿恵

 そこで、1996年に入ると再びダート路線に照準を定める。そしてダート、破竹の9連勝。「砂の女王」としてドバイ・ワールドカップの招待馬となったのだ。同時に、この7歳で臨んだドバイ・ワールドカップは彼女の引退試合となる予定で、レース後はヨーロッパに渡り、一流種牡馬との交配が計画されていた。

 レース予定日の3月29日、ドバイは数10年に1度というスコールに見舞われてしまう。そのため、レースは4月3日に順延。ドバイ・ワールドカップの歴史上、4月におこなわれたレースは、この第2回のみだ。

 この順延がどう影響したかは、わからない。しかし、かつて実況アナウンサーに「女王様とお呼び!」と言わせた名牝馬を悲劇が待っていた。

 最終コーナーから直線に抜けようというところで、ホクトベガは転倒。さらに後続馬に追突され、左前腕節部を複雑骨折してしまうのだ。結果、予後不良と診断され、安楽死の処置を受ける。鞍上の横山典弘騎手は、のちに自分の強引な騎乗が事故を招いたと悔いているが、いくつかの不運が重なった事故という見方もある。のち主催者側は、「馬場のわずかなくぼみに左前脚をとられて転倒」と発表した。

 コース上で安楽死処分を受けたホクトベガの遺体は、検疫の問題で日本に輸送することができなかった。故郷の酒井牧場に建てられた彼女の墓には、遺髪(たてがみ)だけが納められている。

ホクトベガ:1996年以降の競走成績

<ホクトベガ・データ:http://db.netkeiba.com/horse/1990106608/>

 ドバイ・ワールドカップ第1回の勝者は、前章で紹介したアメリカのシガー。だが次の第2回の勝者は、シングスピール。アイルランドで生まれ、英国で調教を受けた馬で、生産者・馬主はシェイク・モハメド、その人である。砂の女王の悲運とコントラストを成すように、彼は自らが創設したレースの第2回で早くも愛馬の勝利という幸運に恵まれたのだった。

(写真:1996年ドバイワールドカップ/ホクトベガ)

© Net Dreamers Co., Ltd.