ホクトベガの悲劇から4年後の2001年、日本から再び1頭の牝馬がドバイに向かった。
彼女の名はトゥザヴィクトリー。デビュー戦で勝利のあと、4歳まではすべて芝レースに出走して14戦5勝の成績。1999年のオークス(G1)でハナ差の2着、2000年のエリザベス女王杯でも4着と好走は見せていたものの、G1は未勝利だった。
ここで陣営は、2001年の初戦で初のダートレースとなるフェブラリーS(G1)に出走することを決断する。もともとトゥザヴィクトリーの潜在能力の高さは誰もが認めるところだったが、これまでのレース環境ではそれを出し切れていなかった。また、調教スタッフには「ダートコースも苦にしないはず」という確信があった。そして、ダートで手応えを得た場合の次のステップとして、ドバイ・ワールドカップへのエントリーも済ませておくこととなった。
トゥザヴィクトリーのオーナーは金子真人、管理調教師は池江泰郎、そして鞍上は武豊騎手。そう、この5年後の2006年、ディープインパクトが凱旋門賞に挑戦するときと同じスタッフがすでに揃っていた。
このフェブラリーSの結果は3着。やはり、ダートコースは苦にしなかった。
そしてトゥザヴィクトリーは予定通り、ダートレースの最高峰ドバイ・ワールドカップへと向かう。
成田からドバイまでは、香港でのトランジットも含めると30時間近い長旅。かわいそうにその間、トゥザヴィクトリーは飛行機の轟音に怯え続けていたという。現地に入ってからも食欲が落ち、馬体がひと回り小さくなったという。だが、1週間も経たないうちにドバイの環境に慣れて食欲も回復、馬体も戻ってきた。
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