メジロマックイーンは1987年、北海道浦河町の吉田堅牧場で生まれた。父はメジロティターン。その父メジロアサマ。母はメジロオーロラで、洞爺湖町のメジロ牧場から預託されていた。ちなみに、その母はメジロアイリス。父、母ともに2代続く生粋の「メジロ」の血統を持つ馬として生まれた3代目が、メジロマックイーンというわけだった。
メジロ牧場は日本屈指のオーナーブリーダーとして、伝統的に天皇賞を最大目標とした馬づくりをしてきた牧場だった。この血統も、1970年秋にメジロアサマ、1982年秋にメジロティターンと父子2代による天皇賞制覇を達成。3代制覇は、メジロマックイーンにとって至上命題ともいえた。
長距離血統らしく、メジロマックイーンの能力が花開くのは遅かった。
同期のダービーをアイネスフウジンが制し、「中野コール」に府中が揺れていた頃、メジロマックイーンはまだ1勝馬。500万下特別で敗れ、骨膜炎がなかなか良くならなかったこともあり、春を諦めていったん休養に入ったところだった。
9月の函館で復帰したメジロマックイーンは、そこから条件戦で2着、1着、1着。準オープンの嵐山ステークスは2着で賞金の上積みに失敗するが、他馬の回避もありギリギリで出走が叶った菊花賞で、ついに晩成のステイヤーの血が開花。ホワイトストーン、同郷のダービー2着馬メジロライアンらを抑えて、見事に優勝してみせた。嵐山ステークスからの菊花賞制覇は、4年前の半兄メジロデュレンと同じ道。まさに「血は争えない」を地で行く戴冠だった。
1990年:菊花賞
この秋、古馬戦線ではオグリキャップが最後のシーズンを戦っていた。メジロライアンは有馬記念へ向かい、2着と健闘。しかし、メジロマックイーンはさらなる成長を促すため休養に入った。
1991年。オグリキャップの去った中長距離路線は、内田浩一に替わって新たに武豊を鞍上に迎えたメジロマックイーンを中心に進んでいった。ブームを牽引してきた先輩たちは、かろうじてオサイチジョージとバンブーメモリーが残っている程度で、ほぼみんな引退していた。
始動戦の阪神大賞典を完勝したメジロマックイーンは、天皇賞・春を盤石ともいえる強さで制し、見事に父子3代制覇という途方もない偉業を達成してみせた。新たな時代の、新たなヒーローは、古色ゆかしい出自を持つ、遅咲きのステイヤーだった。
ここからはメジロマックイーンの「1強」時代がやってくる。しかし、そんな予感は意外なことに裏切られてしまう。
宝塚記念は、メジロライアンの2着。単勝1.4倍に推されていたが、4コーナー先頭という奇襲ともいえる積極策に出た「僚馬」を捉えきれなかった。
秋は、まず始動戦の京都大賞典を圧勝。単勝1.9倍で迎えた天皇賞・秋でも後続を6馬身突き放す走りを見せたが、なんと進路妨害で18着へと降着となってしまう。
続くジャパンCも単勝1.9倍の断然人気。日本馬の総大将として孤軍奮闘するも、優勝したゴールデンフェザントをはじめ上位7頭のうち6頭を占めた外国馬たちの前に、4着に終わる。
そして有馬記念。背水の陣で挑んだこのレースも、単勝1.7倍。誰もが今度こそ3つ目のタイトル獲得は確実だと思ったこのレースでも、ブービー人気の伏兵ダイユウサクの一世一代の末脚に屈し、まさかの2着となってしまった。
まるで呪われたように結果の出ない秋。しかし、その実力が現役ナンバーワンのものであることは疑いようがない。そしてメジロマックイーンは、まだこれが完成形ではなかった。さらなる上昇を期待できるだけの、奥手の血による成長力が、その芦毛の馬体には秘められていた。
翌1992年、メジロマックイーンは阪神大賞典から始動し、そこから天皇賞・春の連覇を目指すこととなった。そして、このときすでに1歳下にはとてつもない才能が伸びてきていた。
トウカイテイオーだ。
(扉写真:'90菊花賞/メジロマックイーン)
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