目次

「涙の日曜日」、そして伝説へ

「涙の日曜日」、そして伝説へ

第6章

「涙の日曜日」、そして伝説へ

サイレンススズカ ターフを駆け抜けた 伝説の逃げ馬の生涯

目次

「オーバーペースで行きます。それが彼のスタイルだから」

 デビュー以来、最高の調子を維持していたサイレンススズカを見て、武豊はこう宣言した。

 抽選で引き当てたのは最内1枠。
「平成10年11月1日、東京11レース1枠1番1番人気」と1尽くしの並びに、レースが終われば1位の数字がまた加わると思っていたファンも少なからずいたのではないか。悪癖と言われていた左旋回も、今では左コースに強いレフティーとして彼の個性になっていた。

 観客の関心は一つだった。
 どの馬が勝つかではない。サイレンススズカがどんなレースをし、どんなタイムでゴールするのか。興味はその一点に絞られていた。

 スタートから飛び出したサイレンススズカは、いつにも増して軽やかな足取りだった。ぐんぐんとスピードを上げ、中継のテレビカメラは最大限に引かないと、後続の馬が映らないほど。

 ところが異変は突然起きた。
 いつものように4コーナーを回るサイレンススズカの姿がない。前触れなく失速していた。大逃げを打ってバテたのではない。様子が分かるにつれ、観客の陶酔は青ざめた驚きに変わった。やがて異様な雰囲気のまま、人々は凍りついた。

 症状はかなり深刻だった。
「左手根骨粉砕骨折」
 診察した獣医はレントゲンを見て、「もはや救う術はない」と判断した。

 駆け付けた橋田満も「レントゲン写真を見せられて、これはもう駄目だと……」と肩を落とした。

 トップスピードで駆け抜けるサイレンススズカを襲った重度の骨折。騎手が振り落とされてもおかしくないほどの激痛に耐え、彼は安全な場所まで武豊を鞍上に乗せて歩き切った。自分の事より、まるで同志である武の身を案じるかのように。

その日、武はひっそりと姿を消した。
「原因は、分からないのではなく、ない」と混乱していた武の落胆ぶりを目の当たりにしていた福永祐一は「あんなに落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と振り返っている。

 武はその夜、浴びるほどのワインを飲み、そして涙したという。
「泥酔したのは、あの時が生まれて初めてだったんじゃないかな。夢であってほしいなって」―――夢であってほしい、日本中の誰もが、思いは同じだった。

「沈黙の日曜日」

 実況の塩原恒夫アナウンサーはこう表現した。そしてそれは、サンデーサイレンス、この馬の父の名でもあった。

 予後不良の診断が下ったサイレンススズカは、安楽死の措置が取られた。レース中に非業の死を遂げたこともあり、サイレンススズカの人気はいまだに根強い。

  「逃げ馬は華麗だ」といわれるが、確かにサイレンススズカの逃げは華麗だった。ただ、人々の心を魅了したのは華麗だったからばかりではない。「オーバーペースで逃げる」その危なさ、その極限の走りに魅了されたのではないか。

 いまも多くのファンが毎年欠かさず墓参りに訪れるという。

 1998年11月1日。
 サイレンススズカは天馬になった。

 ディープインパクトに騎乗していた武は、「もしディープを負かす馬がいるとすれば」との質問に、「サイレンススズカ」と答えている。
 彼が刻んだ5年の生涯の記録と記憶は、色褪せることはなく、これからも語り継がれていくだろう。

サイレンススズカ:生涯成績

<サイレンススズカ・データ:http://db.netkeiba.com/horse/1994103997/>

(写真は、1998年の天皇賞秋)

© Net Dreamers Co., Ltd.