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漱石がうまれたころ

漱石がうまれたころ

第1章

漱石がうまれたころ

漱石と競馬をめぐる一考察 横浜〜上野〜ロンドン

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 漱石の生まれた年、江戸市内はいつになく寂しかった。1866年8月に十四代将軍徳川家茂(いえもち)が没し、明けた1月暮れには孝明天皇が崩御。金之助が生まれたころは「鳴物御停止(ごちょうじ)」のおふれが出ていたという。

 それでも町人たちはひとまず例年通りの年始のあいさつを交わしていたようだが、一方で世の中は不穏な空気に急速に包まれていく。十四代将軍の第二次長州征伐中での崩御を受けて、徳川御三家の慶喜は徳川宗家の方は相続したものの将軍職就任は拒み続け、やっと征夷大将軍に就任したのが1867年1月10日のこと。その間、市中の物価は上がり、強盗の数が激増するなど江戸の治安は悪化の一途を辿っていた。

 牛込馬場下の夏目家にも黒装束の8人組が押し入り、50両あまりの小判が強奪されてしまう。

 そんな中、江戸から離れた根岸の競馬場はひとり気を吐いていた。1866年12月に完成した翌月には初めての競馬が開催されており、以後は毎年4、5月ごろと10、11月ごろの春秋2回という具合に、徐々に開催規模を拡大させていく。

 外国の軍隊が駐屯する居留地内では、万全の警備体制が敷かれており、そこでは住民間の親睦を深めるため、演劇などのさまざまなイベントが催されていた。中でも競馬は貴重な娯楽として、居留地全体の"祭り"のようなものだった。

 根岸競馬場の居留地としての契約は明治32(1899)年には終了する。当然、その後は国内法に基づいて"賭け"も禁止されるはずなのだが、日英同盟などによって継続が決まる。そして昭和17(1942)年秋の開催まで76年間、ほぼ毎年春秋の2開催が続けられ、日本近代競馬の中心的役割を果たすことになる。
(扉の絵:大政奉還 GRANGER.COM/アフロ)

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