菊花賞前日の11月7日、京都競馬場第3レースの3歳新馬戦では、レース後、審議の青ランプが点灯していた。武豊騎手騎乗、1番人気のアドマイヤベガが鋭い末脚で1位入線を果たしていたが、直線で前が詰まった際、わずかに開いたインコースに進路を変えた。ここから一気に加速するのだが、そのときアクシデントが起こった。
わずかに開いたその同じ進路を目掛けて、さらに後ろから、高橋亮騎手騎乗のフロンタルアタックが突っ込んできていたのだ。フロンタルアタックはアドマイヤベガと接触し、ガクッと頭を下げた。アドマイヤベガはそれにひるむことなく、鋭い末脚を見せて前を差し切ったのだが、審議となり、武騎手は裁決室に呼ばれることになった。
裁決の結果、アドマイヤベガは4着に降着。武騎手は6日間の騎乗停止と決まった。6日間の騎乗停止とは、翌日の菊花賞には乗れるものの、次週からは3週間連続で騎乗できないということだ。エアグルーヴで騎乗予定だった翌週のエリザベス女王杯、マイルチャンピオンシップ、さらにはジャパンCにも騎乗できなくなってしまったのである。
武騎手はがっくりとうなだれた。まさかこの馬で翌年、ダービー連覇を果たすことになることなど、このときはまるで知る由もなかった。
この降着、騎乗停止を受けた武騎手に対して、「サイレンススズカの一件といい、災難続きだ」と噂する人もいた。「サイレンススズカの一件」とは、前週の天皇賞(秋)で圧倒的1番人気のサイレンススズカが故障を発生し、予後不良となってしまった一件である。
「お祓いでもしたほうがいいんじゃないか」などと真面目な顔で言い出す人までいたほど、武騎手にとっては災難が続いたのだった。それでも、翌日のスペシャルウィークの騎乗に支障がなかったのは、不幸中の幸いといえた。武騎手にとっても、気持ちを切り替えて、前を向いていくしかなかった。
その菊花賞。スペシャルウィークは、18頭立ての17番枠(最終的にはコマンドスズカが出走を取消し、17頭立て)。京都大賞典で、並み居る古馬を尻目に逃げ切り勝ちを収めたセイウンスカイは、2枠4番に入った。
「なんだか、皐月賞と似た枠順だなあ」
白井寿昭調教師は、冗談とも本気ともつかない口調でいったが、この予言めいた何気ない一言は、奇しくも現実のものとなってしまう。他馬を大きく引き離して逃げるセイウンスカイ。ここは皐月賞と違い、自らのペースでグイグイと加速しながら、逃げを打つ。後続を大きく引き離して3コーナーのカーブを迎える。セイウンスカイにとっては、皐月賞以上に理想的な展開だった。
これを追いかけるには、後続勢は早めに仕掛けなければならない。スペシャルウィークも上がっていく。
「あんなスピードで3000mを逃げ切れるはずがない。前の脚色が鈍れば差し切れる」
これが陣営の読みだったが、セイウンスカイは並みの逃げ馬ではなかった。ほとんど脚色が衰えない。スペシャルウィークも伸びてはいるが、前を走るエモシオンを差し切ったときには、3馬身半前でセイウンスカイがすでにゴールしていた。
掲示板には赤い「レコード」の文字が浮かび上がった。勝ちタイムは3分3秒2。コースレコードを0秒7縮め、菊花賞レコードに至っては1秒2も縮める、とてつもないレコード勝ちだった。
1998年:菊花賞
「確かに外目を回らされたこともありますが、スペシャルウィークも最後は伸びていますし、今日は勝った馬が強かったということです」
武騎手は完敗を認めるコメントを出した。白井調教師はすでに次を見据えていた。
「騎手は未定ですが、次はジャパンCに登録します」
白井調教師は常々、「世界のホースマンが認めてくれる日本のレースは、ダービーとジャパンC」と公言していた。そして、このふたつこそが、ぜひとも獲りたいタイトルであることも述べていた。
ジャパンCは騎乗停止になってしまった武騎手に代わり、鞍上には誰もが認める名手の岡部幸雄騎手が選ばれた。陣営は、岡部騎手の乗る馬が未定だとわかるとすぐに依頼をかけ、快諾を得ていた。ぜひともトップジョッキーに乗ってほしい、という臼田浩義オーナーの強い意向もあった。
ちなみにこのときまで、ダービー馬がその年の菊花賞を使って、ジャパンCに挑戦した例は、シンボリルドルフとウイニングチケットの2例。どちらも3着だった。外国馬の3歳が勝った例は2例あったが、日本の3歳馬が勝ったことはない。この当時はまだ、日本の3歳(当時の馬齢表記では4歳)馬にとって、ジャパンC挑戦は大いなるチャレンジだった。
ところが、である。なんと、このレースを勝ったのは、NHKマイルCを勝った3歳馬エルコンドルパサーだった。エアグルーヴは2着。スペシャルウィークは、過去の例と同じく3着だった。
クラシック戦線では3強(スペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイロー)などともてはやされていたが、外国産馬にはとんでもなく強い馬がいた(当時、クラシックは内国産馬のみ出走可能で、外国産馬には門戸が開かれていなかった)。
日本ダービーとジャパンCこそが、世界で認められる日本の競馬と考えていた白井調教師にとって、ダービー馬よりも強い同期がいたという事実は衝撃的だった。
―――ダービー馬は世代最強馬ではないのか。単なる内国産の最強馬にすぎないのか。
悔しさのなか、自問自答する時間が続いていった。
1998年:ジャパンC
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