1994年6月6日。北海道・平取町の高橋啓牧場で、栗毛の男馬が産声を上げた。父グランドオペラは、イギリスで1戦0勝。母テラミスは、岩手競馬で1戦0勝。非常に地味な血統である。しかし、テラミスを所有していた小野寺良正オーナーは密かに期待をかけていた。
「テラミスは気性難が災いして大成できなかったが、馬っぷりはいい。母としていい仔を出すのではないか―――」
なんとか繁殖牝馬としての活路をこしらえてあげたいという、親心でもあった。
生まれた仔馬は遅生まれということもあって、同い年の馬と比べると、ずいぶん体が小さかった。そこで、当時はまだ一般的ではなかった昼夜放牧によって、成長を促された。そして2歳の春、開業間もない佐々木修一厩舎(水沢)へ入厩。小野寺オーナーの冠名“メイセイ”と父グランドオペラの名を組み合わせて、メイセイオペラと名付けられた。
そして1996年7月、盛岡競馬場で迎えたデビュー戦を、4馬身差で逃げ切った。小野寺オーナーは瞳を輝かせて、明子夫人にこう伝えた。
「これはモノになるぞ! もしかしたら、夢が叶うかもしれない」
ところが…。栄えある新馬勝ちから1カ月後。小野寺オーナーが急逝してしまう。メイセイオペラの活躍を楽しみにしていた夫の遺志を継いで、明子夫人がオーナーを続けることになった。
2戦目以降は出遅れや落鉄が響いて連敗を喫するが、6戦目から快進撃が始まる。2歳の暮れ、水沢の白菊賞を4馬身差で快勝した。菅原勲騎手(当時)は、このレースで初めて、メイセイオペラの手綱をとった。
「バネがあって動きはいいけど、華奢な馬だな。線が細くて、とても460キロあるとは思えない」
岩手の怪物といわれたトウケイニセイをはじめ、数多の名馬に跨ってきた名手にとっては、「いい馬のうちの一頭」にすぎなかった。それでも3歳になったメイセイオペラは、岩手・上山・新潟の精鋭が相まみえる東北ダービー(新潟)、伝統の不来方賞(盛岡)などを圧勝し、連勝を「9」に伸ばした。
もう、地元の3歳に敵はいない。陣営は満を持して、中央遠征の計画を立てる。岩手から中央競馬に挑戦して勝つことは、先代オーナーの夢だった。目指すは、東京競馬場で10月に行われるユニコーンステークス。ところが、順調に調教を積んでいた矢先に―――痛ましいアクシデントが起きる。
© Net Dreamers Co., Ltd.