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新たな“美の規範”

新たな“美の規範”

第2章

新たな“美の規範”

競馬とバレエ 〜ふたつのニジンスキー伝説〜

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 「あの1人だけ降りてこない男の子はだれ?」

 1906年ごろ。当時すでにトップダンサーだったアンナ・パヴロワがロシア・サンクトペテルブルクにある稽古場で思わずつぶやいた。降りてこない、とは空中に留まっている時間がそれほど長いことをいう。その“男の子”の跳躍力はそれほど素晴らしかった。

 バレエ・テクニックのひとつに“アントルッシャ”というのがある。空中にジャンプしたときに脚を交互に入れ替えて打ち付ける動きのことで、“アントルッシャ・シス”が6回で通常はこれで十分なのだが、ニジンスキーの場合は“ディス”、つまり10回を軽々こなしたとか…。

 1889年、ヴァスラフ・ニジンスキーはロシア(現ウクライナ)のキエフで生まれた。両親ともにポーランド人のダンサーで、旅回りの途中でヴァスラフを産む。したがって血筋からいえばニジンスキーはポーランド人だが、ロシアで生まれ育ったという意味ではロシア人である。

 ダンサー夫婦の子供だったニジンスキーは幼いころから舞台で踊っていて、4歳の時にはすでに「喝采される悦び」を知ったというが、9歳のときにロシア帝室マリインスキー劇場付属舞踏学校に入学、バレエダンサーへの本格的な一歩を踏み出した。ダンスの腕は群を抜いていた。

 当時、多くのダンサーは自分を援助してくれる芸術愛好家のパトロンを持っており、この点で男女の別はなかった。ニジンスキーも例外ではなく、学校を卒業してバレエ団員になってからはセルゲイ・ディアギレフという名の興行師と付き合うようになる。

 ここで大切なのは、この2人が出会わなければニジンスキーが西欧に紹介されることはなかったということだ。この出会いが、その後の世界のバレエ史を大きく変えた。

 ニジンスキーがバレエ学校を卒業した2年後の1909年5月19日、パリ・シャトレ座であるバレエの公演が行われた。

 ロシアの敏腕芸術プロデューサーとしてすでに功成り名遂げた“あの”ディアギレフがニジンスキーやアンナ・パヴロワ、タマーラ・カルサヴィナらをスター・ダンサーにそろえたマリインスキー劇場バレエ団による公演だった。その成功は想像以上で、とくにニジンスキーが見せた『クレオパトラ』の奴隷役での躍動感に溢れ官能に満ちた踊り、あるいは『ポロヴェッツ人の踊り』で見せた男性ダンサー群による勇壮な群舞、カラフルな舞台美術の色彩などなど、すべてが異国情緒に満ちていた。パリの観客は心を奪われた。この2年後の1911年、正式に“バレエ・リュス”が結成される。成功に気をよくしたディアギレフが自らの劇団を立ち上げたのだ。



シエラザード

アラビアンナイトをモチーフにした『シエラザード』。金をベースにしたスパンコールの衣装に身を包んだニジンスキーは金の奴隷として登場する。(写真:Roger-Viollet/アフロ)

 ディアギレフは「天才を見つける」天才であり、飛び抜けた審美眼を持つ芸術通だった。ジャン・コクトーやピカソ、ココ・シャネルにストラヴィンスキー、ラヴェル、ドビュッシー……アーティストたちも新しい芸術を創ろうと、ディアギレフの下に集まった。

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