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死して永遠となった名馬とダンサー

死して永遠となった名馬とダンサー

第5章

死して永遠となった名馬とダンサー

競馬とバレエ 〜ふたつのニジンスキー伝説〜

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 1970年6月のエプソムダービーの舞台に、ニジンスキーの未亡人であるロモラ・ニジンスキーの姿があった。ニジンスキーが亡くなってから20年が経っていたが、馬主のエンゲルハードが招待したのだ。

 あらゆる時代を通じて、もっとも偉大な男性ダンサーといわれたニジンスキーはたった10年ほど活躍すると、1919年チューリヒで発狂し、突如として舞台から消えた。その時まだ29歳。だが不滅の名を残すにはすでに充分だった。

 彼はもともと言語による意思疎通がうまくできず、年を追うごとにますます言葉少なになっていた。発狂後もさまざまな療法が試されたが、なんの効果も得られず精神病院に入れられ、最後はロンドンで亡くなる。

 その18年後の1968年、偶然の行為によりアイルランドの名調教師として名高かったヴィンセント・オブライエン厩舎に将来のニジンスキーが現れた。もちろんサラブレッドの話。

 オブライエン調教師は、米国の実業家で馬主としても著名なチャールズ・エンゲルハード氏の命で、「リボーの1歳産駒を見に行くように」とE.P.テイラーの牧場に派遣されていた。リボーは、1950年代中ごろに活躍したイタリアの競走馬・種牡馬で、有名な生産者フェデリコ・テシオが育てた馬だった。

 実のところ、オブライエンはその1歳牡駒にあまり関心を持てなかったが、その隣の馬房にいた牡駒に魅力を感じた。結局、エンゲルハードは、その馬を8万4000ドルで競り落とし、バレエ好きだったのだろうか、妻ジェーンがニジンスキーと名付けた。その後の活躍はご承知のとおり。

 そしてエプソム競馬場に戻る。それまで7連勝中だったニジンスキーはまたしても2着に2馬身半の差をつけてゴールを突き抜けた。自分の亡くなった夫にちなんで名づけられたニジンスキーがダービーに勝利する光景を見ると、ロモラ未亡人は思わず泣き崩れたといわれている。

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