目次

父娘制覇の起源

父娘制覇の起源

第1章

父娘制覇の起源

タニノギムレットとウオッカのダービー史上唯一父娘制覇の偉業

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 長年競馬を見ていると、ごくまれに、数年に一度くらいの頻度で歴史的な瞬間を目にすることがある。たとえば、オグリキャップの奇跡の復活勝利や、シンボリルドルフとディープインパクトの無敗の三冠制覇、東日本大震災直後の日本馬によるドバイワールドカップ・ワンツーフィニッシュなどがそれにあたるだろう。希少価値という意味では、ウオッカが成し遂げた64年ぶりの牝馬によるダービー制覇はそれらを凌駕する。

 そもそも、2017年までの84回に亘る日本ダービーの歴史において牝馬の勝ち馬はわずか3頭しかいない。ウオッカ以外の2頭は、ヒサトモとクリフジで、競走馬全体の層が現在より薄かった戦前の頃の記録だ。偉業であることは間違いないが、現代と同等の価値があるとは言いづらいだろう。それゆえにウオッカの勝利はひときわ輝きを放っている。

 ウオッカの父、タニノギムレットもダービーを勝っているので、親子制覇である。日本ダービーの親子制覇は2007年のウオッカで5組目だった。その以後の10年で6組が達成しているので、前述したように計11組が誕生したことになる。親子制覇自体はもはやめずらしくなくなったが、“父娘”という関係では話はまったく別で、当然唯一のケースである。

 当時から競馬を見ているファンにとってはいまさらな話になるが、タニノギムレットとウオッカは同じ勝負服(黄色地に水色襷)、つまりは同じオーナー、谷水雄三の所有馬。谷水はオーナーブリーダーであるため、生産者も同じカントリー牧場である。

 本書では、タニノギムレットとウオッカ、この2頭の背景や2頭をめぐる人と馬のつながりをひもとき、ここから話を進めていくダービーの、そして競馬の魅力を伝えていきたい。

 日本ダービー(正式名称:東京優駿)は1932年の創設以来、2017年までに84回行われてきた。その長い歴史のなかで、栄光を複数回勝ち取った生産者、オーナーがいる。下記のランキングをご覧いただきたい。

◆日本ダービー・生産者別勝利数ランキング
1位:ノーザンファーム 8勝(ディープインパクトなど)
2位:社台ファーム 6勝(ネオユニヴァースなど)、下総御料牧場 6勝(クリフジなど)、小岩井農場 6勝(セントライトなど)
5位:カントリー牧場 4勝(ウオッカなど)

◆日本ダービー・馬主別勝利数ランキング
1位:(有)サンデーレーシング 3勝(オルフェーヴルなど)、金子真人 3勝(ディープインパクトなど)
2位:(有)社台レースホース 2勝(ネオユニヴァースなど)、谷水雄三 2勝(ウオッカなど)、谷水信夫 2勝(タニノムーティエなど)
※以下、同率2位が多数のため省略

 生産者ランキングでは、現代の競馬界をけん引する社台グループの巨大牧場と、日本競馬発祥当時に栄えていた二大牧場が名を連ねている。このなかで5位のカントリー牧場(ウオッカ、タニノギムレットなどを生産)だけは異質である。生産規模は上位の巨大牧場と比べると圧倒的に小さい。にもかかわらず、4勝という記録を残していることは奇跡と言っていい。

 先述の2頭、ウオッカとタニノギムレット以外に、タニノハローモア(1968年)とタニノムーティエ(1970年)という2頭のダービー馬を出しているわけだが、まずはこの2頭の時代から振り返っていきたい。

 物語は半世紀以上も前の1963年、実業家の谷水信夫(ウオッカのオーナーである谷水雄三の父。以下、1・2章ではそれぞれ信夫・雄三と表記)が北海道の新ひだか町(旧静内町)に「カントリー牧場」を創業したところから始まる。牧場名は、信夫が本業でオープンしたゴルフ場、皇子山カントリークラブに由来している。信夫は競走馬を「鍛え抜いて強くする」という信念のもと、“谷水式ハードトレーニング”と呼ばれる方法で競走馬育成に取り組んだ。

 成果はすぐにあらわれた。創業2年目の生産馬で、 戸山為夫厩舎に預託したタニノハローモア(父ハロウェー)が9番人気という低評価をくつがえし、ダービーを勝利。1枠1番を生かした逃げ切りで、現代では考えられないが、なんとデビュー18戦目だった。この記録は現在も破られていない。

 ここにも、「鍛え抜いて強くする」という信夫の方針が表れている。ちなみに、皐月賞を勝ち、このダービーで1番人気4着と敗れたマーチス(父ネヴァービート)もカントリー牧場の生産馬である(オーナーは大久保常吉)。つまり、信夫はこの年、生産者として皐月賞とダービーを勝ち、オーナーとしてもダービー制覇という輝かしい成績を残した。

 2年後の1970年、またもカントリー牧場からクラシックホースを送り出した。過酷なハードトレーニングを耐え抜いたタニノムーティエ(父ムーティエ)だ。タニノムーティエは京都の島崎宏厩舎に預けられ、2歳夏にデビュー、3歳春の弥生賞を勝ち、その時点までで11戦9勝という成績を残した。クラシックの有力馬が3歳春の時点で11戦していることにも驚くが、さらに驚くことに、タニノムーティエはこのあとスプリングS→皐月賞→NHK杯→日本ダービーというローテーションをこなした。

 この4戦は、ライバルのアローエクスプレス(父スパニッシュイクスプレス)との“AT対決”として話題を集めた。

 アローエクスプレスはスプリングS出走時点で6戦無敗。2頭の実力はもちろんのこと、“関東馬”のアローエクスプレスと“関西馬”のタニノムーティエという図式も相まって、かなりの盛り上がりを見せた。当時の競馬は東西の分断が強く、ファンにとっても“関東馬”、“関西馬”という意識が現在より大きかった。

 スプリングSはムーティエが勝ち、アローが2着。皐月賞も同じくムーティエが勝ち、アローが2着。一転、NHK杯はアローが雪辱を果たし、ムーティエが2着。そして迎えた日本ダービー。人気は関東馬のアローのほうが上だったが、結果はムーティエが勝利し、アローは5着に敗れた。

 タニノムーティエはこの勝利で二冠達成。ダービーの勝利が12勝目というのは新記録であり、いまもなお破られていない。

(扉写真:'07日本ダービー口取りにて)

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