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タニノギムレットの快進撃

タニノギムレットの快進撃

第2章

タニノギムレットの快進撃

タニノギムレットとウオッカのダービー史上唯一父娘制覇の偉業

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 信夫は、カントリー牧場創業から10年足らずで2頭のダービー馬を生産し、同時にダービー2勝オーナーとなった。「時代を築く」まさにそんな言葉があてはまる順風満帆なホースマン生活であった。が、好事魔多し、信夫に悲劇が襲う。1971年秋、鍼灸院に向かう途中で不慮の交通事故に遭い、急逝。以降の牧場経営や事業経営は、長男の雄三が引き継ぐこととなった。

 当時30代前半だった雄三は、信夫の代に生産されたタニノチカラで天皇賞・秋(1973年)や有馬記念(1974年)などを勝ったが、それ以降しばらく、G1級勝ち馬を生産することができなかった。重賞勝ち馬は散発的に出ていて、生産規模を考えると不振というほどではなかったが、先代の華やかさと比べるとやはり見劣りした。

 80年代、そして90年代も思うような成果は出せていなかったが、それでも雄三は馬づくりをあきらめなかった。土壌改良や繋養牝馬の整理、さらには繁殖用途専用の分場設置など、いくつかの改革を実行した。長い雌伏の時を経て、2000年代、いよいよその努力が実を結んだ。

 2001年、夏。札幌競馬場である1頭の新馬がデビューした。名はタニノギムレット。「ギムレット」とはジンをベースにしたカクテルである。父ブライアンズタイム、母タニノクリスタル、母の父はクリスタルパレスという血統構成で、管理調教師は栗東の松田国英。冠名からわかるように、生産者はカントリー牧場でオーナーは谷水雄三だ。

 このデビュー戦は、のちに活躍するクラシック路線とは対極のダート1000mという条件だったが、素質だけで2着に好走した。

 その後、ソエの影響による4カ月の休養を挟み、12月の未勝利戦(阪神芝1600m)で復帰。四位洋文を背に、2着に1秒2差をつけて楽勝すると、その勢いのまま今度は武豊騎乗で年明けのシンザン記念に出走。内から力強く抜け出して快勝した。

 この勝利で、陣営もファンもタニノギムレットをクラシック候補として強く意識した。まるで馬がそのことをわかっているかのように、つづく2月のアーリントンカップも豪快な末脚で差し切って重賞連勝を決めた。

 皐月賞のトライアル、スプリングSは落馬負傷中の武に代わって再び四位が騎乗し、圧倒的な1番人気に応えて快勝した。

 そして皐月賞。鞍上は引き続き四位。重賞3連勝中ということもあり、2歳王者のアドマイヤドンなどをおさえて1番人気に推された。しかし、末脚を生かすタイプのギムレットにとって、小回りで多頭数という条件が合わなかった。道中は後方に控え、勝負どころから大外を回って追い上げたものの、届かず3着。メンバー中唯一、34秒台の末脚を繰り出したが、先に抜け出したノーリーズンやタイガーカフェを捉えきれなかった。

 敗れはしたものの、中山の短い直線で差し届かず惜敗というレース内容は、ダービーに向けて期待が持てるものだった。レース直後から、多くのファンは次のダービーはギムレットが巻き返して勝つだろうと見込んでいた。実際、この2002年から10年さかのぼってみても、2001年のジャングルポケット、1998年のスペシャルウィーク、1993年のウイニングチケットが、皐月賞では差し届かず敗れたあと、広い東京コースのダービーで本領を発揮して勝利を収めている。

 カントリー牧場の、そして谷水家にとっての32年ぶりのダービー制覇が現実味を帯びてきた。ところが、陣営はここで意外な選択をした。

(扉写真:'02NHKマイルC / タニノギムレット)

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