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未来の優駿に愛情をそそいだ2頭の母馬と1人の女性

未来の優駿に愛情をそそいだ2頭の母馬と1人の女性

第1章

未来の優駿に愛情をそそいだ2頭の母馬と1人の女性

スペシャルウィーク (上)

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 1995年5月2日、北海道沙流郡日高町にある日高大洋牧場。そこで一頭の牝馬が苦痛に悶えていた。腸の一部が壊死しており、今まさに命の危機が迫っていた。キャンペンガールという名の繁殖牝馬のお腹には、稀代の名種牡馬サンデーサイレンスの仔が宿っていた。

「もう母馬は助からないだろう。でも、せめて仔馬だけでも助けたい」

 そんな思いで牧場スタッフたちの看病が続けられていた。だが、もう限界かもしれない。母馬が死んでしまえば、仔馬も危ない。出産予定日は5月中旬。ちょっと早いが、命には代えられない。これまでにないほどの苦しみ方を見せるキャンペンガールを見て、牧場の小野田宏代表は母馬に陣痛促進剤を投与することを決めた。

 腸炎の痛みに陣痛が加わり、二重の痛みが母馬を襲う。だが、母馬は最後の力を振り絞り、胎内の仔馬を産み落とそうと力を入れる。

「見えたぞ!」

 仔馬が見える。あとは人の力で一気に引き出す。新しい命の誕生である。仔馬は黒鹿毛の牡馬だった。

「よし、急いで乳母(うば)馬の手配だ」

 母馬のキャンペンガールは初乳を与えることができる容体ではない。乳が出ないなど、子育てができない母馬のための乳母馬をレンタルしてくれる専門の牧場がある。そこに依頼しようということだった。だが、どんなに早くても数時間は来ない。それまでは哺乳瓶を使って、人の手で人工乳を与えることになった。

 数時間後、乳母馬がやってきた。乳母馬はサラブレッドなどの軽種馬ではなく、ソリなどを引く重種馬である。一般的に軽種馬は気性が荒いため、比較的おとなしい重種馬のほうが乳母馬には向いているとされるからである。

 しかし、やってきた乳母馬は、重種馬にしては気性が荒い馬だった。仔馬に乳を与えるどころか、遠ざけようとしてしまったのである。乳がもらえなければ、仔馬の命が危ない。栄養面でも、人間の手間の面でも、人工乳だけで馬を育てるのは不可能だ。

 やむを得ず、牧場スタッフは即席の木製やぐらを作り、そのなかに乳母馬を入れて動かないようにした。お乳の部分は外に出るようにして、仔馬が飲みたいときにはいつでも飲めるようにしたのだ。いつまでも乳母馬をやぐらに繋いでおくわけにもいかないが、お互いに慣れるまでは仕方がない。

 仔馬が人の手を離れ、乳母馬の乳を飲めるようになったちょうどその頃、出産馬房で苦しんでいたキャンペンガールがひっそりと息を引き取った。ようやく苦しみから解放されたような安らかな顔だった。自らの命と引き換えに仔馬に与えたものは、「無事」という名の最大の愛だった。

 乳母馬は2日間、やぐらにつながれ、3日目に外に出された。ここまで、仔馬に乳母馬の糞を擦り付けて、少しでも嫌がらないようにするなど、とにかく人の手でできることはすべてやってみた。それでも仔馬を受け入れないようなら、別の乳母馬を用意しなければならない。

 とはいえ、別の乳母馬がすんなりと仔馬を受け入れてくれるという保証もない。ここまでのことをもう一度、やり直さなければならないかもしれないし、今度は仔馬のほうが「母親とは違う」と思って、乳を飲まないかもしれない。

 やぐらから出た乳母馬は、仔馬が乳を飲むことを容認する態度を取った。完全に受け入れたわけではないのかもしれないが、とにかく仔馬は乳母馬の乳をやぐらなしでも飲むことができたのである。牧場スタッフにとってはまずは一安心。乳母馬は交代せず、できる限り、人が目を離さないようにすることで対応することになった。

 仔馬は乳母馬を母と慕い、すくすくと育っていった。すくすくと育ってくれたことはとても良かったのだが、今度は別の問題が発生した。重種馬は軽種馬と比べて2倍から3倍も乳の出が多い。仔馬は飲みたいときに飲みたいだけ乳を飲むので、放っておくとどんどんと太ってしまい、脚への負担も大きくなって、ケガのリスクも高まってしまうのである。そのため仔馬を当初の予定よりも約1カ月早く、離乳させることにした。

 9月初旬、突然、その日はやってきた。血の繋がらない親子は人の手によって引き離され、別々の暮らしをすることになった。血は繋がらないとはいえ、4カ月間、同じ馬房で暮らし、乳を飲み(飲ませ)、いつも一緒に放牧されていた2頭は、最初の頃がウソのように、もうれっきとした親子になっていた。

 離乳は競走馬となるためには誰もが通る道である。母の愛情を知らずに育った仔馬は、乳母の愛によってすくすくと育ったが、またひとつ、大きな試練を乗り越えなければならなかった。

 仔馬は見えなくなった乳母馬を慕って鳴き続け、乳母馬も姿の見えない仔馬を呼び続けた。しかし、お互い、数日間、鳴き続けたが、やがて鳴くのをやめた。乳母馬はその役目を終え、レンタル会社へと返還された。2頭はもう二度と会うことはなかった。

 母の愛を二度までも奪われることになった仔馬だったが、その愛に優るとも劣らない愛情を注ぐ者が現れた。最初の母は軽種馬、二度目の母は重種馬だったが、三番目の母は“人間”という種だった。それは、ニュージーランドからやってきたティナという若い女性だった。

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