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ナリタブライアンの苦悩

ナリタブライアンの苦悩

第2章

ナリタブライアンの苦悩

たった一度っきりの“マッチレース”

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 ナリタブライアンは1991年、北海道の早田牧場新冠支場で生まれた。父はこれが初年度産駒の新種牡馬ブライアンズタイム。母はイギリスのセリ市で購入されたノーザンダンサー牝馬のパシフィカス。栗東の大久保正陽厩舎に預けられたナリタブライアンは1993年、2歳夏に函館でデビューした。

 ちょうど1歳上の半兄ビワハヤヒデがクラシックを戦っていたこの時期、ナリタブライアンはまだ平凡な戦績の馬にすぎなかった。デビューから2歳秋のデイリー杯3歳S(現デイリー杯2歳S)3着までは5戦2勝。勝ったのは、新馬戦と500万下のきんもくせい特別だけだった。

 そんなナリタブライアンが激変したのが6戦目のオープン特別、京都3歳S(現京都2歳S)だった。初めて白いシャドーロールを装着してレースに臨んだナリタブライアンは、これを3馬身差で圧勝する。「怪物」が覚醒した瞬間だった。

 入厩当初から臆病で、シャドーロールはそれを改善するために着けたとのことだった。ただ、大久保正陽調教師は実戦を数多く使って馬を仕上げるのが大きな特徴で、そうした馬づくりによる素質の開花が、たまたまシャドーロールの装着とタイミングが重なった。そんな見方が今となっては妥当なのかもしれないが、いずれにせよそこからの快進撃はすさまじかった。

 京都3歳Sの次走、ナリタブライアンはGI朝日杯3歳S(現朝日杯FS)も3馬身半差で圧勝する。レース史上2位タイの好タイムで、3着馬はさらに4馬身後方というブッちぎりだった。

 明けて3歳になると、その強さはさらに度を増した。共同通信杯4歳S(現共同通信杯)は4馬身差。スプリングSは3馬身半差。馬群からだろうが外を回ろうが、直線で抜け出すと、あとは一方的に差を開げるのみ。いつしか人はナリタブライアンを「シャドーロールの怪物」と呼んだ。

 皐月賞3 1/2馬身、  ダービー5馬身、  菊花賞7馬身。

 これは当時、JRAが作ったポスターに記されたコピーだが、ここにはナリタブライアンの強さの本質が端的に表現されている。走るたびに開いた着差は3冠合計で15馬身半。もちろん、全7頭の3冠馬で最大だ。皐月賞と菊花賞のタイムは、ともにコースレコードだった。

 そんなナリタブライアンが唯一、この年に喫した敗戦が、菊花賞の前哨戦の京都新聞杯だった。伏兵スターマンにクビ差、競り負けたもので、夏を過ごした北海道で猛暑に見舞われ、状態がまったく上がらないことが響いた形だった。ただこれも後から考えれば、あくまで「叩き台」のレースを使って馬を仕上げる大久保正陽調教師ならではの敗戦だったともいえるのかもしれない。

 ともかく、シンボリルドルフ以来10年ぶり、史上5頭目の3冠馬となったナリタブライアンは、3歳シーズンの最後となる有馬記念でも同世代の牝馬ヒシアマゾンに3馬身差の圧勝を収める。

 明けて1995年、古馬となってもその呆れるほどの強さは変わらない。始動戦の阪神大賞典は阪神大震災の影響で京都での施行となったが、ここも7馬身差で圧勝。いざ天皇賞(春)へ向かおうとした矢先に、思いもよらぬアクシデントがナリタブライアンを襲った。

 右股関節炎の発症だった。

 全治2カ月の発表とともに休養に入ったナリタブライアンがターフに戻ったのは、診断から半年以上が経った天皇賞(秋)だった。調教も軽く、明らかにまだ復調途上との声もありながら1番人気に推されたが、結果はサクラチトセオーの12着。見せ場もない惨敗だった。

 続くジャパンCも1番人気に推されたが、やはり直線で伸びず、ランドの6着と凡走。

 そして、4歳最後の有馬記念。勝負どころで仕掛けたナリタブライアンは4コーナーで2番手に上がって直線を向いたが、しかしそこまでだった。逃げていた1歳下の菊花賞馬マヤノトップガンを捕らえるどころか、後続にも次々と差され、最後は4着に終わってしまった。

 まだ完治していないのではないか。いや、怪我は治っているが、痛みを思い出して全力が出せないのではないか。そうではなく、そもそも早熟だったのでは。メディアもファンも、さまざまな意見を述べ合って議論した。でも当然ながら、答えなど出なかった。

 そして年が明けて1996年、5歳になったナリタブライアンは阪神大賞典に出走してきたのだった。

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