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記録達成と勝てない日々

記録達成と勝てない日々

第5章

記録達成と勝てない日々

日本経済から読み解くテイエムオペラオー 偉大な賞金王の記録

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 2000(平成12)年12月24日、すなわち有馬記念当日の未明、岩元調教師のもとに一本の電話が入った。テイエムオペラオーを担当する原口政也厩務員からだった。原口厩務員はテイエムオペラオーに付き添って、中山競馬場に滞在していた。

「たいへんです。オペラオーが暴れて、馬房に顔をぶつけてしまって……」

 岩元師は獣医とともに急いで中山競馬場に駆けつけ、テイエムオペラオーの様子を確認した。出血はないものの、左目の上が大きく腫れ上がっていた。相当、痛いはずだ。

 岩元師は出走の是非を判断しなければならなかった。最終決断は「Go」。そう決めたからには最善を尽くすだけだった。

 出走。中山の2500mはスタートして、すぐにカーブがある。中段よりやや前方に付けたかったテイエムオペラオーだったが、スタート直後のごちゃつきに巻き込まれ、最初の直線では後ろから3、4頭という位置取りとなってしまった。やはり、目の上の腫れの影響があったのかもしれない。

 なかなか仕掛けられないうちに、最後の直線を迎える。中山の直線は短い。残り200mを切っても馬群の中だったが、最後の最後に前が開く。そこを矢のように突き抜け、20世紀最後のG1レースを先頭でゴールした。

 年間G1・5戦5勝、G2・3戦3勝、8戦無敗という、とてつもない記録を達成した瞬間だった。それは、大きなアクシデント、道中の厳しいマークといった困難を乗り越えての大記録達成だった。

2000年のテイエムオペラオーの戦歴

<2000年のテイエムオペラオーの戦歴>

 翌2001(平成13)年は、7冠馬シンボリルドルフに並ぶG1・7勝(あと1勝)、そしてスピードシンボリ、オグリキャップと並ぶJRAの重賞12勝(あと2勝)という記録がかかる年となった。

 だが、思わぬところで調整に狂いが出る。2001年1月、テイエムオペラオーが放牧先として滞在していた「JRA競走馬総合研究所常磐支所」、通称「いわきの馬の温泉」を連日、大雪が襲ったのである。

 馬場に出られず、温泉に浸かる毎日。当初、3月の阪神大賞典(G2)から始動するはずだったローテーションは大幅にずれ、4月の産経大阪杯(G2)からの始動となった。その産経大阪杯もギリギリ間に合ったという形で、いい仕上がりとはとても言えない状態だった。

 案の定、終始動きは鈍く、このレースは4着に敗れてしまう。昨年、無敗だったテイエムオペラオーだったが、この年は初戦から土がつくことになってしまった。

 その後も調教のペースは上がらないまま、春の天皇賞を迎えることになった。前年は、中長距離G1すべて勝利しているので、このレースに勝つと天皇賞3連覇。さらには、通算でG1・7勝となり、七冠馬シンボリルドルフの記録に並ぶことになる。

 陣営には記録というプレッシャーがかかるレースだったが、調整不足が否めない中でもテイエムオペラオーはその底力を発揮。メイショウドトウを半馬身差おさえ、堂々の七冠馬となった。

 だが、テイエムオペラオーが先頭でゴール板を通過するのは、このレースが最後となる。宝塚記念(G1)、京都大賞典(G2)、秋の天皇賞(G1)、ジャパンカップ(G1)と、4戦連続で2番手でのゴールとなった。

 記録上、京都大賞典は1着なのだが、これは1位入線のステイゴールドが直線で斜交し、ナリタトップロードを落馬させ、失格となったために繰り上がりで勝利したものだ。この勝利で、JRA重賞12勝という記録に並んだのだが、陣営にとっては何とも複雑な記録達成だった。

 もっとも、前年の8戦全勝がすごすぎるだけで、この年の成績もかなりの好成績と言ってよい。春の天皇賞を制し、宝塚記念、秋の天皇賞、ジャパンカップで2着に入っているのだ。このあとに述べる「賞金」という意味でも大きい。

 そして、迎えた有馬記念。翌年から種牡馬となることが決まっていたので、これが引退レースとなる。

 この最後のレース、まさかの5着に終わるのだが、これはここまで大きなレースで常に接戦を演じてきたテイエムオペラオーとメイショウドトウがお互いに意識しすぎて、両方とも相手の仕掛けを待ってしまったこと、さらには差してきたマンハッタンカフェが逃げ馬トゥザヴィクトリーのペースに惑わされずにうまく乗ったことなどが敗因だと言われている。

 いずれにしても、これでテイエムオペラオーの現役生活は終わった。最後は不完全燃焼とも言える幕切れだったが、陣営はみな「もう十分に頑張った。お疲れさま」と声を掛け、テイエムオペラオーを見送った。

(写真:2000年有馬記念)

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