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“亡霊の孫” その特異な出生

“亡霊の孫” その特異な出生

第2章

“亡霊の孫” その特異な出生

テンポイント 40年を経ても色褪せない名勝負

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 ときは「TTG三強」最後の対決となった有馬記念から四半世紀ほどさかのぼる。

 1951(昭和26)年の桜花賞で2着、菊花賞で4着と好走したクモワカという牝馬がいた。32戦11勝という立派な成績で、旧5歳になった1952年も現役をつづけていた。

 ところが、その52年の9月、クモワカは、京都競馬場の獣医師により馬伝染性貧血(伝貧=でんぴん)と診断された。伝貧は、重度の貧血を伴う高熱が出て、やがて衰弱死する伝染病だ。

 クモワカは、京都競馬場の隔離厩舎に移された。しかし、伝貧らしき症状はまったく見られなかった。

 にもかかわらず、家畜伝染病予防法の規定により、12月末までに殺処分するよう京都府知事の名で命令がくだされた。

 馬主の山本谷五郎は農林省畜産局や京都府に伝貧である証拠を示すよう求めた。交渉はなかなか進まなかったが、京都府は、クモワカを治療試験用の学術試験馬として隔離厩舎に置きつづけることを許可した。

 そのままほぼ3年が経過し、クモワカは、55年秋、北海道早来町の吉田牧場に移った。

 クモワカは吉田牧場で繁殖牝馬となった。56年春から種牡馬との交配を始め、「丘高」という繁殖名で軽種馬登録協会に血統登録を申請し、受理された。

 しかし、58年春、第2仔を産んだクモワカは、軽種馬登録協会から血統登録を抹消すると通告された。丘高が、伝貧で殺処分命令を受けたクモワカであることを知られたからであった。

 その後、京都府から馬主の山本に、再検査の結果陰性と認められたので、殺処分を取り消すという通知があった。

 それでも軽種馬登録協会はクモワカ側の申請を受け付けなかった。

 そこで山本は、クモワカと産駒の血統登録を申請する民事訴訟を起こした。一審はクモワカ側の敗訴に終わったが、上級審の審理中、軽種馬登録協会は、クモワカが健康であると診断されたら登録を認める、という方針を決定した。

 クモワカとその産駒は健康であると診断され、63年9月、ついに血統登録が認められた。

 その年の3月、クモワカはカバーラップ二世を父とする牝馬を産んでいた。

 のちにテンポイントの母となるワカクモである。

 ワカクモは、母と同じ京都の杉村政春厩舎に所属し、母の主戦騎手だった杉村一馬(杉村政春調教師の息子)を背に、65年10月の新馬戦でデビューした。

 そして旧4歳になった翌66年春、母が勝てなかった桜花賞に臨んだ。出走馬24頭中、4番人気という支持だった。

 1番人気は、前年7連勝で朝日杯3歳ステークスを制した関東馬メジロボサツだった。このメジロボサツは、ほぼ半世紀後の2015年に年度代表馬となるモーリスの4代母なのだから、血統というのは面白い。

 詩人・劇作家の寺山修司は、ワカクモとメジロボサツが激突した桜花賞の模様を、両馬の血統的背景や生い立ちなどを比較しながら、「二人の女」と題する掌編に書いている。

 そのなかで、寺山は、ワカクモを「亡霊の子」と表現した。殺処分命令がくだされて死んだはずのクモワカの産駒だからである。

 もう一方のメジロボサツは、生まれてすぐに母が死に、デビューしてほどなく父も世を去ったことから、「中央競馬史上でも数少ない『孤児馬』」と記している。

 この桜花賞を制したのは、「亡霊の子」ワカクモだった。

 ワカクモは現役引退後、故郷の吉田牧場で繁殖牝馬となった。

 そして、1973年4月19日、父コントライトの第2仔を産んだ。

 それがテンポイントである。

 そう、テンポイントは「亡霊の孫」として生を受けたのだった。「亡霊の孫」という響きとは対照的に、栗毛と流星が目を惹く、美しいサラブレッドであった。

1977年有馬記念優勝時。栗毛と流星が目を惹く、美しいサラブレッドであった 写真:日刊スポーツ/アフロ

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