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競馬エッセイを確立した時代の寵児――寺山修司(後編)

競馬エッセイを確立した時代の寵児――寺山修司(後編)

第2章

競馬エッセイを確立した時代の寵児――寺山修司(後編)

競馬を愛した文士たち(下巻)

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すし屋の政ののれんを押すと、調子っぱずれの声が聞こえてきた。
 春高楼のはなのえんー
 めぐる盃かげさーして
 いいきげんだね。
 とひやかすと、政がわかるかい? といった。
 これが目黒記念のヒントだよ

 これは、寺山修司が1970(昭和45)年秋から83年春まで報知新聞に連載していた予想コラム「みどころ」「風の吹くまゝ」の、71年11月7日付の冒頭部分である。

 すし屋の政、バーテンの万田、トルコの桃ちゃん、フルさんといった個性豊かな登場人物が、よもやま話をしながら勝ち馬を予想する。こうしたスタイルの競馬コラムを確立したのも寺山だった。

寺山修司は競馬エッセイを確立した時代の寵児だ(写真:毎日新聞社/アフロ)

 寺山は、1936(昭和11)年1月10日、青森県弘前市紺屋町で生まれた(35年12月10日生まれという説も)。青森市立野脇中学校3年生のとき、文芸誌「白鳥」を発行。青森県立青森高等学校に進学し、雑誌「青蛾」を発行したり、「山彦俳句会」を設立するなど、早くから文芸活動を行っていた。

 54年、早稲田大学教育学部国文学科に入学し、在学中から歌人、俳人として活躍。しかし、ネフローゼを患って入院し、1年足らずで大学を中退する。

 57年、22歳のとき第一作品集『われに五月を』を出版。その後、ラジオドラマ「中村一郎」で民放大会連盟会長賞を受賞したほか、戯曲や映画の脚本を書いたり、監督としてメガホンをとったり、文芸誌に小説を発表したりと、さまざまな分野で活躍する。

 そんな寺山が競馬を覚えたのは、早大在学中、ネフローゼで入院していたころのようだ。初めて競馬場を訪れたのはそれよりずいぶんあとで、63年、メイズイがクラシックの主役を張っていた年だった。女優で、妻となった九條今日子とともに、作家・競馬評論家の山野浩一に連れられて行ったのだった。

 66年、競馬に関する初の著作『競馬場で会おう』を上梓した。翌年、劇団「天井桟敷」を結成。そして、その年に出した『書を捨てよ、町へ出よう』がベストセラーとなる。同書の第2章「きみもヤクザになれる」は、半分ほどが競馬に関する話だ。このとき31歳。多方面で才能を煌めかせる時代のカリスマとして人気を博した。

 寺山は、馬主として1頭だけ競走馬を所有した。船橋・森誉厩舎のユリシーズだ。その経緯がいかにも寺山らしい。

 彼は、ミオソチス(忘れな草)という栃栗毛の牝馬を愛していた。そのミオソチスが地方競馬に移籍したとき、エッセイで「草競馬に落ちる」と表現したところ、地方競馬の騎手だった森から抗議の手紙が来た。新宿の酒場で森に会った寺山は自身の非を認め、森が調教師になったら馬を持つと約束したのだ。

私は「馬主」になったような気はしなかった。しかし、馬に親友ができたような、ふしぎな心あたたかさだけは、本物だったような気がする

『馬敗れて草原あり』にそう記している。

すべての競馬ファンが、運を克服しようとして科学的なレーシング・フォームを読み漁るとき、賭けが「自由」へのあこがれであることが明らかになる

 これも同書からの引用だ。

 寺山は、独特の視点と、情感に満ちた文章で、馬と競馬を描きつづけた。

落ちることができるものは、いつも高きに在る。私は日本で一番よく落ちる騎手嶋田功は、一番高い場所にいるのだと思わぬわけにはいかないのである

 そう記した嶋田功のほか、父子でダービー制覇を果たした中島啓之、追い込みを武器とした吉永正人といった騎手を好んだ。

 馬も、欠点の少ないエリートタイプより、逃げたり、後ろからぽつんと行くような不器用な馬を愛した。

 83年、特に贔屓にしていた吉永が、追い込み馬ミスターシービーとのコンビでクラシックに臨んだ。

 皐月賞が行われた4月17日、寺山は、フジテレビの競馬中継にゲスト出演していた。雨のなか、吉永を背にしたミスターシービーは皐月賞を優勝。吉永は、騎手デビュー23年目にして初めてクラシックを制した。

 その瞬間、どんな思いが寺山の胸に沸き上がってきたのだろう。

 それを記した文章が残されることはなかった。

 彼の肉体はすでに病魔に蝕まれていた。競馬を文芸にした奇才・寺山修司は、吉永正人とミスターシービーの三冠制覇を見届けることなく、肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発し、83年5月4日に世を去った。まだ47歳だった。

1983年の日本ダービーを制したミスターシービー(写真:JRA)

だが私は必ずしも「競馬は人生の比喩だ」とは思っていない。その逆に「人生が競馬の比喩だ」と思っているのである

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