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不当な低評価とアクシデントで生まれた“必然”の勝利 〜メジロデュレンの場合〜

不当な低評価とアクシデントで生まれた“必然”の勝利 〜メジロデュレンの場合〜

第2章

不当な低評価とアクシデントで生まれた“必然”の勝利 〜メジロデュレンの場合〜

有馬記念 馬券教本

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 穴馬が来るパターンには、大きく2つがあるように思う。1つは「実力馬の過小評価」。本来は力があるにもかかわらず、近走の成績などから過小評価されてしまっているケースだ。もう1つは「アクシデント」。例えば、大本命馬が大きく出遅れたり、落馬したり、故障によって競走中止したりといったケースだ。

 1987(昭和62)年の有馬記念はこの2つの合わせ技、しかも「アクシデント」までダブルで起こってしまったという、非常に稀なレースだった。

 このレースでの1番人気は、この年の皐月賞(GI)、菊花賞(GI)の2冠を制しているサクラスターオーで単勝は4.0倍。2番人気は、前走ジャパンC(GI)で日本馬最先着の3着に来ている牝馬のダイナアクトレスで、単勝4.6倍。3番人気はこの年のダービー馬メリーナイスで、単勝4.9倍だった。ただ、単勝オッズを見てわかる通り、その差はわずか。実際、前日発売の段階ではメリーナイスが4.1倍の1番人気。サクラスターオーが4.8倍の2番人気。ダイナアクトレスは5.4倍の3番人気と、上位人気馬の支持は割れる型になっていた。これに、この年の桜花賞(GI)、オークス(GI)の牝馬2冠を制し、エリザベス女王杯(GI)(当時は4歳馬=現3歳馬限定)2着のマックスビューティが4番人気で続き、ここまでが単勝1ケタ人気だった。

 さらには、前年のダービー(GI)と有馬記念を制しているダイナガリバー、秋の天皇賞(GI)2着のレジェンドテイオー、エリザベス女王杯(GI)を勝ち、マックスビューティの牝馬3冠を阻止したタレンティドガール、前年の春の天皇賞馬クシロキングなど、まさに有馬記念らしいオールスター戦の様相を呈していた。

 そんななか、前年の菊花賞馬でありながら、10番人気に甘んじていたのが本稿の主人公メジロデュレンだった。1月の日経新春杯(GII)3着ののち、長期休養を挟んで、10月のカシオペアステークス(オープン)5着、鳴尾記念(GII)10着と振るわず、休み明け3走目でこの有馬記念に臨んできた。

ブックス

1986年菊花賞

 前走の敗因はハッキリしないが、馬体重がプラス12キロと重めが影響したことは否めない。成長分があるとはいえ、その前のカシオペアステークスでもプラス6キロ、さらに日経新春杯は菊花賞からプラス12キロ(菊花賞もプラス6キロ)と1年ちょっとのあいだに30キロ増、1986年6月のなでしこ賞(400万下)を勝ったときの430キロと比べると、およそ1年半で44キロも増えている。

 この馬体重については陣営も気にしていたようで、池江泰郎厩舎の青木健二調教助手は、レース前、こう述べている。

「(前走時)重いとは思っていたが、計量して12キロ増と聞かされたときには驚いた。育ち(成長期)にかかっているわけではないのに。ビシビシ追っていてああだから…」

 ただ、調子のよさには手応えを感じていたようだ。

「乗っていてもわかるんですが、ここにきて日一日とよくなっていますね。菊花賞を勝ったときもこうでした」(青木調教助手)

 この有馬記念での馬体重は、マイナス14キロの460キロ。菊花賞を勝っている実力馬が、前走敗戦の原因のひとつである馬体増を克服し、さらに調子を上げていることに注目すれば、馬券的に「残す」という選択肢も当然あったはずだ。だが、多くのファンは「切る」という選択をした。上位人気馬があまりにもキラキラ光って見えたからだろう。

 もうひとつ、これはこの当時はまだ誰も知る由もなかったことだが、のちにメジロデュレンは「歴史的名馬の兄」、「兄弟菊花賞制覇」としても語り継がれることになる。メジロデュレンは母メジロオーロラの初仔。メジロオーロラはメジロデュレンを産んだ4年後、メジロティターンを父とする、のちにメジロマックイーンと名付けられる芦毛を産んでいる。メジロマックイーンは有馬記念を勝っていないが、宝塚記念を勝っているし、秋の天皇賞でも1位入線していることを考えれば、血統的に距離が短すぎるということはないだろう。

 さて、レースである。1つ目のアクシデントはゲートが開いた直後に起こった。3番人気のダービー馬メリーナイスが落馬。根本康広騎手は地面に叩きつけられ、意識を失った。すぐ隣の枠にいたタレンティドガールの蛯沢誠治騎手はレース後、こう語っている。

「(メリーナイスが)1完歩目でつまずいた。そのとたん、根本は消えていた」

 レースは2枠3番レジェンドテイオーが逃げる展開。そのあとを1枠2番のミスターブランディが追う。2頭の逃げ馬の競り合いでハイペース必至かといわれていたが、ミスターブランディが2番手に控えると、先頭のレジェンドテイオーはペースをグッと落とし、予想外のスローペースとなった。

 向正面から3コーナー手前あたりで、ようやくペースが速くなる。その直後、2つ目のアクシデントが発生する。1番人気のサクラスターオーが突如、失速。競走を中止したのである。

 じつはこのアクシデントが、結果的に10番人気のメジロデュレンに有利に働くことになる。レース後、メジロデュレン騎乗の村本善之騎手は「ボキッという音が聞こえてスターオーが止まったので、前が開いた」と語っている。手応えも十分。スローペースで先行馬が粘る展開のなか、外から一気にまとめて差し切り、メジロデュレンが有馬記念を制した。なお、故障したサクラスターオーは種牡馬としても期待されていた馬だったが、その後の懸命の看病も実らず、およそ半年後に命を落としている。

 10番人気の差し切り勝ちに、ファンはもちろん、陣営も驚きと戸惑いを見せた。鞍上の村本騎手が「菊花賞馬の意地を見せつけたいとは思ったが、まさか…」と語れば、池江調教師は「ファン投票(8位)で選ばれなければ、あるいは(挑戦を)あきらめることも考えていた」と述べた。

 そもそも出走自体、陣営のなかでも意見が分かれていた。メジロ牧場の北野雄二牧場主は、追い切り後、「あれ(出走)は、おふくろ(北野ミヤオーナー)と池江(調教師)が決めたこと。来春の天皇賞のメドが立てばそれで十分」と語っていた。その北野牧場主はレース後、「いやぁ、私もここまでよくなっているとは判断できなかった」と、前言撤回とばかりに照れながら頭を掻いた。

 単勝2,410円、枠連は4-4のゾロ目で16,300円だった(この当時、馬連の発売はなし)。

「近走凡走でも、調子を上げていたGI馬は軽視することなかれ」と教えてくれたメジロデュレンは翌年も現役を続けたが、春の天皇賞(GI)3着が最高。有馬記念5着を最後に引退。種牡馬となったが、目立った活躍馬を出すことなく、1994年を最後に種牡馬を引退。2009年、老衰のため死亡した。

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