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スタート〜『愛されてきた血統』に生まれて

スタート〜『愛されてきた血統』に生まれて

第1章

スタート〜『愛されてきた血統』に生まれて

モーリス ラストラン回想録

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シャティン競馬場にファンファーレが鳴り響き、ゲートが開く。

ブックス

2016年香港カップスタート

綺麗に揃ったスタートだった。

モーリスも、後方にポジションをとるものの、出遅れに出遅れを重ねた若かりし頃の姿は、そこにはなかった。

モーリスの出遅れで思い返されるのは、平成の始まりとともに現れた、当時の『出遅れの代名詞』とも呼べる名牝の姿だ。

 その名牝は、平成最初のオークスで、ゲート内で立ち上がってしまい大きく出遅れ、敗北を喫した。その後も一線級の牡馬を軽く捻ることもあれば牝馬に大負けすることもある、いわゆる『気分屋』として名を馳せる。多くの競馬ファンが、そのポテンシャルと不安定さに心を奪われた。

 その牝馬は、メジロモントレー。モーリスの祖母である。

ブックス

1990年アルゼンチン共和国杯

 モーリスが「メジロ血統の結晶」と呼ばれる所以は、このメジロモントレーによるところも大きい。「メジロ」を支えた牝系のひとつの、代表格ともいうべき1頭である。しかしあえて、その「メジロ血統」が「メジロ血統になる以前」の物語から、この血を振り返っていきたい。

───これは、マイル戦ではないのだ。2000mで凌ぎを削る香港カップは、まだゆっくりと思いに耽るだけの時間をくれる。

 日本最初の重賞馬は、ハクリユウという馬だ。岩手県で生産されたハクリユウは、1932年に創設された日本最初の重賞・目黒記念を制して北海道で種牡馬となり、菊花賞馬マルタケや目黒記念勝ち馬エスパリオンなどを送り出した。半妹のスターカツプは繁殖として成功を収め、孫のシラオキはスペシャルウィークやウオッカを輩出した日本有数の牝系「シラオキ系」の祖となっている。今も人気の名牝系だ。

 平成を代表するダービー馬の1頭であるスペシャルウィーク、ウオッカの源流ともいえる血統が、戦前からすでに活躍を始めていたというのだから、血統は奥深い。そのハクリユウはモーリスの六代母・コウゲンの父親として今もなお、その血を遺している。

 当時の馬産といえば岩手や千葉が中心で、北海道の馬産は今のような隆盛を誇っていなかった。そんななかで北海道に送られたということで、ハクリユウの種牡馬入りも、それほど多くの期待を集めていたわけではなかったということがうかがえる。そもそも北海道の牧場にいる多くの種牡馬・繁殖牝馬はアメリカからの輸入馬で、なんとか本州の馬産に追いつこうとしていた。

 ハクリユウの配合相手の1頭である第七デヴオーニアも、両親はアメリカからの輸入馬であった。配合は単なる偶然か、この後の発展を見越してか───理由はどうあれ、ここから、この1頭の輸入牝馬から、脈々と「メジロ血統」が築き上げられ、そしてモーリスへと繋がってゆく。

───内国産馬種牡馬といえば、日本では長く冷遇が続いてきた。1950年〜2001年のあいだ、日本の中央競馬リーディングサイアーが輸入種牡馬のみであるという事実からも、その確固たる格差がうかがえる。

「強い馬を生産するなら、輸入血統」

 そういう考え方が強い時代だ。どうしても海外血統を取り入れた馬のほうが、よく売れたし、よく走った。しかし、内国産種牡馬ハクリユウと第七デヴオーニアのあいだに生まれた牝馬(コウゲン)の配合相手に選ばれたのもまた内国産種牡馬で、シマタカという馬だった。

 1950年のダービー馬・クモノハナの全兄であるシマタカも、やはり岩手出身の馬であり、良血馬ではあるものの、ダービーでは8着といったように飛び抜けた戦績でもなかったため、北海道で種牡馬生活をするようになる。

 その後、菊花賞馬コマヒカリらを輩出しているように、良血馬シマタカは内国産種牡馬として輸入種牡馬らに一矢報いる活躍をすることになるのだが、そんな彼と上述のコウゲンのあいだに生まれたのが、メジロクインだった。語り始めてから3世代目で、ようやくこの血統の「メジロ」源流に行き当たる。それでもまだ、1957年のことである。

 この血統が競馬界の表舞台に登場したのは、そのメジロクインの仔から、といえるだろう。内国産種牡馬の名前が並んだ血統表を持つ馬が、GIの舞台に立ったのだ。メジロクインが産み落としたただ1頭の馬───メジロボサツは、400キロに満たない小さな牝馬だった。

 菩薩とはサンスクリット語のボーディ・サットヴァ(悟り・生きている者=悟りを目指す者)という発音を漢字にしたものとされているが、メジロボサツの馬生は肉親の死から始まる。難産がたたり、生後すぐに母がすぐ亡くなると、父のモンタヴァルも彼女のデビューを待たずしてこの世を去った。

 人々は憐憫の目を向けるが、メジロボサツはすくすくと育ってゆく。思えば、メジロボサツの父であるモンタヴァルも、短い生涯のなかで愛された種牡馬だった。数多いる競走馬のなかでも、とくにドラマチックな運命を歩む彼の産駒たちは、人々の心を掴んだ。

 レース中の骨折が原因で死亡したGI馬ナスノコトブキ。

 農薬が付着した飼料を食べてしまい菊花賞を回避したモンタサン。

 ベストコンディションで走れさえすれば、もっと大きなタイトルを狙えるはず…そう思わせる産駒たちが揃っていた。なかでもモンタサンの人気は絶大で、みのもんた氏の芸名の由来にもなっている。

 そんな愛されてきた血統がこの牝系に加わり、そしてその血を受け継いだ1頭の牝馬は、素質馬が集まった朝日杯3歳Sを快勝し、その年の最優秀3歳牝馬に選出されている。

─── たった1頭、両親の血を引き継いだ生き残りの牝馬・メジロボサツが、その引退後に12頭もの産駒を送り出し、メジロ血統の礎となる。5頭の牝馬のうち『モーリスへと繋がっていく牝馬』が生まれるのは、初仔出産の1968年から約15年の時を経た、1981年のことになる。

 その間、競馬界ではタケシバオー、スピードシンボリ、タケホープ、そしてTTGといった数々の名馬たちが、ターフを駆け抜けていった。1981年にうまれたのはメジロクインシー。メジロボサツ、最後の仔であった。

モーリスは、自らに流れる古来からの血脈を知ってか知らずしてか、慎重に、だが軽快に、最初のコーナーへと差し掛かっていった。

先頭はすでに、快速馬エイシンヒカリ。

香港巧者ステファノスは虎視眈々と、モーリスをマークしていた。

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